龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

政治の俯瞰と達観

もう10年以上前になるのか、民主党議員で山本譲司という人がいて、政治資金の詐欺罪で逮捕、起訴され、有罪となり刑務所に送り込まれてしまった。菅直人の秘書として政治の道に入り、大学時代に辻本清美の同期生であったとか、そういう経歴にいかにも不吉で不穏な匂いが漂っているが、はたして運命なのか、運が悪かっただけなのか、政治家も刑務所に入れられてしまえば一般人以上に哀れで惨めである。私はこの人が書いた『獄窓記』という本を当時、読んだのであるが、細かな内容までは覚えていないが、全体的な読後感の印象で言えば、筆者の山本氏はとても真面目で誠実な人物であるという感想を持った記憶がある。もちろん当人が獄中での体験を、自らの罪を反省しながら書いたものであるから、そういう印象を醸し出す内容になることは当然なのかも知れないが、当時の率直な感想で言えば、こういう人物であっても政治の世界では、一歩間違えれば、犯罪者になって刑務所に入れられてしまうのだなと感慨深く思ったものである。山本氏の罪状は政策秘書給与の詐取による詐欺罪であったが、政治家が政治資金を取り込む手口は無数にあるのであろうと想像される。そのどの手口が詐欺に該当し、どの手口であれば舛添がやっていたことのように不適切であっても違法ではないということになるのかは、紙一重というべきなのか、それとも検察やマスコミの恣意的な判断によるものなのか、或いはその時点の世相や政治状況が導く運の良し悪しなどの要因もあるであろうが、何れにせよ我々一般人から見れば、どれも税金である政治資金が政治活動という建前の元で、当たり前のように平然と掠め取られている事実には何ら変わりないものである。そういうことが延々として繰り返されている。マスコミはまるで僧侶の勤行のように、政治とカネの問題を飽きることもなく何十年と唱え続けるが、何のご利益も効能もあり得ないものである。むしろ反対にそのような政治家の不正が決して根絶されない環境を温存させようと画策しているのではないかと、疑念を抱いてしまうものである。まあ分かり易く言ってしまえば、マスコミの飯の種であるし、日本の民主主義という神に捧げる供犠のようなものでもある。はっきりと言えることは、善悪の問題ではないのである。政治の世界には、いやもっと言えば、この世には善も悪もなくて、あるのはその時々の善悪の解釈と運の良し悪しだけなのである。こういうことを言うと誤解を招くだけかも知れないが、もちろん人の物を取ったり、人の命を奪ったり、レイプしたりすることは議論の余地なく悪であるのだが、善悪の観念というものは突き詰めれば政治の場における権力の解釈に行き着くものであって、その曖昧さであるとか不明瞭性が、政治家の政治とカネの問題に集約されているといっても過言ではないのだ。そういう意味では、論理の飛躍があるかも知れないが、日本が行っている死刑執行なども本当は善悪とは無関係なのである。あれは単なる儀式なのだ。善悪がないからこそ、ここに善悪ありきと衆人に見せしめる必要性によって生み出された舞台なのだ。こういうことを述べれば、あまりに一般の大衆との皮膚感覚からかけ離れているので、多くの場合は無視されたり、困惑させたりするだけのことは承知の上なのであるが、別に私はペダンチックな論述で一人自己満足に浸っている訳ではない。通俗的ではなくとも自分なりに意味があると考えるところを自分の言葉で述べているだけのことである。そこで先ず断っておきたいことは、私の物の見方や思考様式には、「達観」があるように感じられる人が多いのではなかろうかと思うのだが、私は「俯瞰」はしていても「達観」しているつもりはない。それでは俯瞰と達観はどう違うのだと問われれば、説明が難しいが、達観というものは私の言語感覚では、全体を見通してわかったようなつもりになっていても、実はその対象の本質には迫れていない内的な認識状態を現しているということである。それに対して俯瞰とは主観的な見方から跳躍して、出来るだけ自分自身を遠ざけることによって、対象の本質を客観的に捉えようとする態度なのである。もちろん広辞苑にそのように書かれている訳ではないが、私はそういう風に心理的な自己の位置づけと本質を把握する志向性の関連の違いにおいて、達観と俯瞰を使い分けているというか、勝手に認識しているものである。何で私が今、このように哲学的で分かり難い話しをするのかといえば、ここからが大切な話しなのであるが、政治とカネの問題がこのようにいつまでも繰り返されて日常の光景のようになってしまうと、大衆は感覚が麻痺してしまって、次第に政治に達観してくるようになってしまうものである。つまり所詮、政治とはいつの時代もそういうものであるし、自分一人が憤ったところで何がどうなるものでもないし、自分の不甲斐なさを政治のせいにしていても人間的な成長は何一つ望めないものであって、自分は自分の手が届く範囲のテリトリーだけを真面目に一生懸命に取り組んでいればそれでよいのである。政治の世界に不正義や堕落があっても、それはそれで許せないことであるが、直接的には自分とは無関係の話しである。簡単にいうとこのような無力感や諦念、ドライさが達観の土台だと考えられる。何も私はそういう考え方が間違っているというつもりはなくて、もちろん自分自身にもそのような思考回路はあるし、それはそれで一つの真理であると言えよう。しかしそのような思考や感覚は、政治とか人生とか社会の本質には触れていないのである。表層をなぞっているだけのことなのだ。そしてそういう思考の延長には、社会の堕落とか不正という因子を肯定はしないまでも生存条件として折り込んだ上で、一つのゲーム理論として自分がどのように立ち回れば利益を上げることができるのか、どのように発言すればバッシングを受けることなく支持されるのかというような、利己的で打算に満ちた闘争しか生み出されないのではないのか。結局は突き詰めれば、人のことなどどうでもよくて、自分だけが勝ち組になればよい、自分だけが儲かって、自分だけがもてはやさればよいという闘争が人生とか社会の本質になってしまい、またそのことに多くの人が疑問や矛盾を感じる能力までもが枯渇してしまう。格差の拡大とか政治の腐敗などもそういう世相に原因があるように感じられる。深刻なことには、今や大衆だけでなく政治家そのものが政治に達観してしまって、市民感覚や社会常識の表層をなぞるだけで、実質的には名誉や自己利益の追求や楽しみを求めるための政治に変質してしまっているのだ。だから日本は本質的には政治不在なのである。本質的に政治不在であるにも関わらず、金と権力だけが政治家にふんだんに与えられていて、政治の限界効用も低下し切っているので、必然的に政治は劣化、堕落する以外に道はないのである。舛添を見てもわかる通り、政治家としての感覚というよりも、どちらかというと主婦が家計のやり繰りをするように政治資金を自由に扱っているのがよくわかる。これが日本の政治のレベルなのである。舛添だけではないが日本の政治は何をどこで間違えてきたのか、小利口に達観などせずによく考えるべきだ。戦後日本の民主主義の幻想そのものが持たなくなってきているように私には見える。だからこそ今、自主憲法の制定が、新しい精神が必要とされているのだ。