龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

報道と大衆の言語能力

何か、あれだな。こんなんで大丈夫なのかなと不安になるのだけれど、保護された大和くんが父親に対して「許す」と言ったとのことに違和感や不快感を持つ人が多いようだが、こういう状況が普通に読み取れないものであろうか。恐らくは、父親は大和くんに謝って「許してね」と言ったのだ。それに対して大和くんは「許す。お父さんは優しいから許す。」と答えたのであろう。7歳の子供のボキャブラリーとか言語能力からすれば、微笑ましくも自然なやり取りであって、何も上から目線で父親を許す態度を取った訳ではない。どうしてそういうことがわからない人が多いのか正直なところ不思議である。まあ一部分だけを抜き出して印象操作するような伝え方にも問題があるのであろうが、次の選挙から投票権を18歳に引き下げて、日本の民主主義は益々幼児化してしまうのではないかと若干の恐怖すら感じる。難易度の高い高校や大学に合格することも大切なのであろうが、もっと自分なりに日常的な情報を掘り下げて考えたり、洞察する能力を養うことが必要なのではなかろうか。今回の置き去り騒動の一連について感じることは、あまりに大衆は情報の表層的な部分に右往左往し過ぎている。躾けの行き過ぎによる結果ではなく、事件性があり父親が怪しいという見方がまことしやかに論じられたかと思えば、いざ無事に子供が保護されて父親の説明に嘘がなかったことがわかった途端に、多くの人が別にその必要性が何ら無いにも関わらず、ネットでお詫びのコメントを述べたりとか、私から見れば、何だそれはという感じなのである。どこかの教育評論家まで大衆の論調に一々調子を合わせているようではあまりに情けない。もちろん悪気はないという以上に善良性の現れなのだから批判すべき対象ではないのかも知れないが、結局、報道の言い回しに過剰に反応しているだけだという自覚が持てないものであろうか。そういうことの延長上に7歳の子供が大人を許すのはおかしいなどという短絡的な発想が出てくるのである。これからの日本の健全な民主主義のためにも、もう少し大衆は(そして知識人も)、言語感覚を鍛えていくべきである。