龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

厚かましさの理由について

今回は何の話かと言うと、政治的にシリアスなことばかり追及していると精神衛生上好ましくないと思われるので、どうでもよいことと言えばあれだけれど軽めの話題にする。私は大阪人である。大阪で生まれて、大阪で暮らしている。それで大阪人自体にはそれほど意識や自覚はないと思われるのだが、他府県の人間はどうも大阪人に対して特殊なイメージを抱いているようである。たとえば金ぴかのけばけばしいファッションとか、何でも思ったことをずけずけと言うとか、厚かましいとかそういうことである。確かにそのようなイメージに当てはまるタイプの人間が大阪に多いことは認めるし、また実際によく見かけるものである。しかしそれが大阪人のタイプとして一般化されてよいものかと言えば、私自身がまったくそうではないし、また私の身の回りの人間も現在もこれまでの人生を振り返って考えて見てもそうでないものである。だから大阪人を他府県の人間と比べて特殊化されるような意見なり、情報に接すると何かしら居心地の悪さなり、違和感を感じてしまうのである。
最近では大阪人の特殊性をご丁寧にも実験で証明するようなTVの企画番組をよく見かける。先日はこのような番組を見た。商店街の中にペットボトル入りの水を無料配布する台が設置されてある。台の上には数十本のペットボトルが並べられていて、「自由にお取りください」の張り紙が掲示されている。それを見た通行人がどのような行動を見せるかを神戸と京都、大阪の3か所の商店街で実験していた。神戸では横目で見ながら素通りする人が多い。たまに持っていく人もいるが、他の人の分を考えて持っていく本数は当然1本だけである。京都は神戸ほど控えめではないが、それでも水を持っていく人の本数は、ほとんどは1本だけである。ところが大阪人は2本とか3本とか抱えられるだけ、持てるだけ持っていく人が多いのである。中には台の下に置いてあったペットボトルのから箱を出してきて、それに詰めて持ち帰る女性も映されていた。同じ関西でも府県によってこれだけの違いがありますよということの実験結果であった。もちろん悪いことをしている訳ではないが、同じ大阪人として見ていて恥ずかしい気持ちであった。こういうところから大阪の人間は、厚かましい、がめついというイメージが増幅され、固定化されていくのであろう。私ならそういう場に遭遇すればどうするかと言えば、誰がどのような意図で無料配布しているものかわからないような物は、特に飲食品など身体の中に入れる物は気持ち悪いので持ち帰らない。仮に安心できるような場合であっても持っていくとすれば1本だけである。しかし番組にケチをつけるつもりはないが、その結果が大阪人の性格を反映しているものかといえば、社会学的に考察すればもう少し別の理由があるように思う。それは何かと言えば、身も蓋もないような理由であるが金の問題が大きいと考えられる。言うまでもなく大阪は東京に次ぐ大都市であるが、生活保護受給率は都道府県別で全国第一位である。大阪市は市町村別に見て全国第二位のようだ。なぜ大阪は大都市でありながらこれほどまでに生活保護受給者が多いのであろうか。まあ在日の比率が高いことも要因としてはあるであろうし、或いはそれ自体が大阪人の厚かましさやとかがめつさの現れであると見れなくもないが、これほどまでに受給率が高いのであれば、実際に生活に困窮している人が多いということもまた厳然とした事実なのだと考えられる。大阪市は人口は多いが、面積の小さな都市である。大都市であるから金持ちも多いが、生活困窮者も狭いエリアの中に密集して住んでいる。そうすると今のようにデフレ傾向が強い世相の中では、どうしても生活感覚が経済力が低い階層の行動パターンに影響されることになるのではなかろうか。わかりやすく言えば、家計にある程度のゆとりがあっても節約に励むということである。消費経済というものは大別すれば2パターンしかないのだと考えられる。上に引っ張られるか、下に引っ張られるかだ。上に引っ張られれば見栄を張り、下に引っ張られれば節約するのである。それが資本主義社会の実相だ。生活保護受給者が突出して多い大阪人のデフレ経済下における行動パターンは、恥も外聞もなく節約するのである。だから無料でもらえるものは、持てるだけ持っていこうとする人が多いのである。あつかましいといえばあつかましいが、そこには大阪特有の大阪人的な合理性と生活力が見られる。
それからもう一つに男女差というものもあるように考えられる。一概には言えないことだが、女性は物をもらうことがうれしいのである。その物が欲しいからとか、もらえば得をするからという合理性もあるにはあるが、それとは別に何かをもらうということで自分の価値を再確認するようなところがあるように思える。もちろん何らかの見返り行為が要求される可能性がある状況で警戒心が作動するのは当然であるが、基本的には女性はもらうという行為なり事実によって心が華やいだり、豊かになったような気持ちになるようである。そうは言っても、誰かから手渡しでプレゼントされるのと台の上に置かれてある物を勝手にもらって行くのでは全然状況が違うが、元を辿れば気持ちの出所は同じだと思われる。私の母なども83歳になるが何かをもらうことが大好きである。もらうことに抵抗感や屈託がまるでないのだ。電気店が行っているキャンペーングッズの配布や葬儀会社が会員対象に行っている無料の食事会などには喜んで行っているようである。男の私からすればそういうことはみっともないというか、あさましい行為のようにも感じられるが、ちょっとした物をもらってそれで幸福を感じているのであれば、こう言っては何だが安上がりのような気もする。男はもらえば惨めな気持ちになるが、女は幸福になるのだ。しかし今の時代は男女感覚の違いはなくなってきているので男がもらって幸福になったり、女がみじめだからと受け取りを拒否するケースも多く見られるであろうが、その元の痕跡はまだ残っているのだと思われる。だから無料配布の物を持って行くのは番組を見ていても女性の方が多かったようである。もちろん商店街を通行しているのは男よりも女の方が多いであろうから単純には結論付けられないことではあるが。いずれにせよ大阪人は、特に女性はこの二つの理由が融合されて化学反応のように強化され、他府県の人間に比べて無料でもらうということに対して貪欲なのだと思われる。それを大阪人特有の厚かましさやがめつさと見るべきことが正しいのかどうかはわからないが、一般化できることではないと思う。少なくとも私は遠慮のない行為や人間は好きではないし、国内における地域差だけではなくそういう国民性の国というものも嫌いである。