龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

西部邁さんの死について

西部邁さんが自殺した。西部さんは皆さんもご存じの通り、テレビ朝日系の「朝まで生テレビ」に一時はレギュラーのコメンテーターのように毎回、出演していて国民にも非常に知名度の高い保守論客の知識人であった。私は朝まで生テレビの番組が個人的には好きではなかったのである時期からは全く見なくなってしまった。番組が好きでないというより、司会者の田原総一郎氏が不快でならなかったのである。何が不快なのかと言えば、田原氏は司会者の立場でありながら、ゲストである出演者の話しを最後まで聞かずに途中で遮って頭ごなしに否定したり、自分の考えを一方的に押し付けたりする態度を常態化させていたことである。そういうスタイルだと言えばそれまでなのだが、討論番組の意義や性質から考えても司会者は別に裁判官でもないのだから厳密に中立である必要性までは求められないであろうが、自分の意見を主張する時にはもっと控えめに、謙虚であるべきだと思うものである。それがこの番組の場合は、田原氏自身が場の主宰者として様々な思想や意見の価値判断や裁断を下す権限をもった中心人物として君臨しつつ全体的な議論の流れをコントロールしているので、民主的な討論番組というよりも討論という形式を利用した政治的な大衆操作であることは明らかであるように私には見て取れたからである。要するに議論のための議論なのである。根底のところで見ている人間を軽視しているのではないかとも思えた。自己満足のための議論であるともいえる。だから当時の私にはこのような番組を有難そうに朝まで延々と見ている人間はダメ人間であろうし、また毎回のように嬉々として出演している知識人もその精神性から考えて大した人物ではないであろうと内心では馬鹿にしていたものである。だからある時期からぱったりと見るのをやめてしまったが、それでも合計で10回ぐらいは見たのであろうか。記憶にあるものではオウム真理教麻原彰晃が教団幹部と一緒に出演して、幸福の科学の信者と対決した回も見ている。
西部さんについては、どのようなテーマのどのような経緯であったかは忘れてしまったが、鮮烈に記憶に残っている場面がある。それは死生観についての話しで、西部さんと司会の田原氏が激しくやり合っていたシーンである。西部さんは何のために生きているかということについて、生きるということは何かの手段であって目的ではないと発言されていたように記憶している。それにたいして田原氏はそうではない、生きること自体に意味や価値があるのであって決して手段であってはならないというような意味合いのことを述べつつ反論していた。右翼思想と左翼思想の根底の対立構図がここにあるとして私はそのやり取りを興味深く見ていたものだが、西部さんはいつものようににこやかな笑顔を見せながら、額に手を当てつつ発言されていたが、田原氏の方はかなり感情的に激昂していて険悪という以上に危険な空気感が画面からも感じられたものであった。それが西部さんと田原氏の間で根深い確執となったのかどうか、またそれが原因かどうかもよくわからないが、それ以降西部さんが朝まで生テレビに出演しなくなったように私の記憶にはある。番組を見ていた当時の私の率直の印象では、生きること自体が目的であると平然とというか傲然と言い放つ田原氏には自己中心的な低俗性のようなものを感じ取ってしまって、そういう人間相手に議論することには意味がないと思えたものである。一方で自分の人生や生命を何か大きなものに役立てたり捧げようとする西部さんの考えには共感できたし、それが当然だとも思えた。しかし今の私の考えは時の流れの中で変遷してきている。その件に関してはどうも田原氏の主張の方が正しいような気がしてきた。西部さんの自死の理由はよくわからないけれど、自分の命を何かに役立てようとする思想性や自らの命に対峙する意志的な姿勢と無関係ではないと考えられる。それはそれで正しいのかも知れない。何かのために生きて、何かのために死ぬ。それは確かに崇高な生き方ではあると思う。しかし自らの生命を一つの手段として捉える死生観は、どこまでいっても政治の呪縛からは離れられないのだと考えられる。政治の本質とは何なのであろうか。民主政治の進化段階の最終形態にユートピアがあるのかどうかはわからないが、少なくとも現段階における政治とは国民に嘘をついて騙したり、洗脳操作したり、様々な法律で規制しながら、支配管理するものでしかない。たとえそれが戦争や祖国防衛の思想とは無関係であったとしても、自らの命を手段として、自らの生命を超える価値のために役立てようとする思想は権力とか政治の枠組みを突き破るものではないような気がしてきているのである。今の日本の政治を見るまでもなく、政治とはとことんに低俗であり、浅薄であり、邪悪なものでしかない。そのような政治を批判しようと、受け入れようと自らの生命を賭してまで、或いは人生を捧げてまでと言ってもよいが、最終的に守らなければならないような価値は本当は日本には何一つとして存在しないのであるが、時と状況によってはそのような虚構の物語に殉じなければならない運命の奔流があるだけではないのであろうか。だから自分の生命に最終的な価値や目的があるかのような田原氏の発言は、一見するとエゴイスティックで低俗のようにも思えるが考えようによっては、そこには確かに突き抜けているものも垣間見られるのである。少なくともこんなに堕落した日本の政治の価値観に準じるためや、そういう思想に対抗するために自分の生命を超えた何かを見つけようとしても何一つとして見えてくるものはないのであろう。三島由紀夫切腹したからといってもその後の日本の政治は堕落の一途であったことがそれを証明している。そういう意味では三島の自決は無意味であったのである。生き続けて小説を書き続け、日本人の精神を鼓舞し続けてくれた方がはるかに有益だったようにも思えるが、逆説的に三島は自らの死でもって日本の虚構性と無意味さを日本人に開示してくれたのであろうと思う。
目の前に一輪の冬薔薇が咲いているのであれば、その花は決して政治的に花開いている訳ではない。それではなぜ咲くのかといえば、それが自然の発露であるからだ。散る時も同じである。人間の生命もまた一輪の花のようなものなのであろうか。保守論客の精神は常に死というものの意味を問い続けている。