龍のひげ’s blog

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慰安婦問題と朝日報道の本質

朝日新聞が8月5日、6日に掲載した、慰安婦問題とその報道についての検証記事について感想を述べたい。主な要点は、一部の「強制連行」の事実や証言(済州島における吉田清治氏の『慰安婦狩り』)を明確に虚偽だとして、否定したものの、慰安婦には、総じて自由を奪われたことの「強制性」が、あったとした。もう一点は、「挺身隊」と「慰安婦」の混同についてであるが、これについては、1990年当時は慰安婦についての研究が進んでいなかったゆえの誤りであり、朝日新聞以外の読売新聞や毎日新聞にも、同様の記載がなされていたと紹介されている。その他、元慰安婦の初めての証言を報じた、元朝日新聞記者の上村隆氏には、元慰安婦の裁判を支援する韓国人の義母との関係を利用して記事を作り、都合の悪い事実を意図的に隠していたのではないかとの疑惑があるが、記事に事実の捻じ曲げはなかったと弁明している。朝日新聞が1992年1月11日朝刊一面で報じた「慰安所 軍関与示す資料」(吉見義明、中央大教授が91年12月下旬に防衛研究所図書館で見つけ、面識のあった朝日新聞記者に連絡されたもの)については、宮沢喜一首相が訪韓するタイミングを狙って、意図的に政治問題化させたものであるとの疑惑があるが、これについても朝日新聞の報道前に政府はその資料の存在を把握していたとして否定している。全体的に見れば、なぜ朝日新聞が今、この時期にこのような慰安婦についての検証記事を掲載したのかということについては、素朴な疑問であるが、一部の誤りを認め、訂正しつつも、あまり謙虚に反省しているという気配は伺われない。5日の朝刊、一面の論評見出しは「慰安婦問題の本質 直視を」と、あたかも朝日新聞だけがこの問題について真正面から直視していて、それ以外の多くの人々が、目を背けているかのような印象を与えているものであるが、どうなのだろうか。朝日新聞は「本質」という言葉の意味をわかっていないか、都合のよいようにすり替えているのではなかろうか。あるいは、本質から目を背けている張本人が、朝日新聞であるとも言える。先ず、「挺身隊」と「慰安婦」の混同についてであるが、確かに読売新聞や他紙にも同様の誤りはあったようであるが、朝日新聞の論調が全体的に、この問題について先駆者的な役割で、韓国の反日衝動を惹起させ、煽り立てるものであったことは誰にも否定し得ない事実である。それを読売新聞や、毎日新聞にも同様の表記があったから、どうのこうのとは、本質どころか姑息以外の何物でもない。また朝日新聞の、韓国側に反日攻撃への根拠を提供するかのような全体的な論調の中で、「太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる」と断定的に記載することは、報道機関としての客観性、公平性を大きく逸脱し、報道そのものが政治行為とほぼ変わらない水準にあったといえるのではなかろうか。また慰安婦に自由が奪われたことの「強制性」についてであるが、処遇にばらつきがあり慰安婦の手元に渡っていたかどうかは、はっきりしないが兵士が慰安所で代金を直接間接に払っていたであろうことは、朝日新聞も認めているところである。もちろん慰安婦が金を受け取っていたからといって、自由を奪われたり、ましてや「売春婦」呼ばわりされることは当時の政治的な時代背景から、道徳的に許されないと言う主張には、一定の正当性があると考えられるものである。しかし本質を云々というのであれば、朝日新聞は一体、根本的に何を問題にしているのかということができる。果たして女性の性が侵害されることを普遍的な問題としているのか、それとも、戦時に女性の性が守られることを「平時」に特別、重要視することに意義を感じているのかということである。確かに「戦争と女性の性」というテーマは今、世界全体で考える潮流になっているのかも知れないが、そんなことは慰安婦問題の本質を考える上で、何の関係もないことである。寧ろ「戦争と女性の性」について考察されるべきは、終戦直後の混乱期における戦勝国兵士の敗戦国女性に対するレイプなのではなかろうか。ドイツなども終戦直後には、相当数の女性がソ連の兵士にレイプされていた事実がある。日本もタブーとして、ほとんど報道はされないが、戦後のどさくさに紛れて米兵にレイプされた女性は、相当多かったのだと想像される。そういうことをマスコミはほとんど報道しない。それに比べれば、慰安婦制度は、軍や国がどの程度まで関与していたかははっきりとはしないものの、ある面においては軍や国にとっては公式には認められない制度ではあっても、出来得る限り公序良俗に反しないように運営させようとした意思が、吉見義明氏が発掘した資料からも伺われるものである。よって純粋に道徳的な善悪だけで見れば、ほとんど報道が封印されている戦勝国の敗戦国に対するレイプ事犯などに比べれば、慰安所慰安婦制度は、こう言えば語弊があるかも知れないが、平気で人が人を殺すことが当たり前の戦争中の時代背景から考えれば、相対的には道徳的な制度であったということも出来るのではないのか。今の人権意識や男女平等の時代感覚だけで、戦争中の性の問題を断罪し続けたり、論ずる姿勢は、私は偽善以外の何物でもないと思う。そういう偽善に准ずる人間ほど、いざ戦時になれば急変するようにも思われるものである。また普遍的に女性の性を守るという思想であるなら、外交問題、政治問題の材料でしかない慰安婦問題よりも、現在においても売春や風俗は、至る所にいくらでも存在するではないか。どこが違うと言うのか。もちろん現在では、明確に国は関与していないが、ほぼ黙認しているという状況は戦時中の慰安婦制度とどれほどの距離感があるというのか。たとえば2003年において韓国政府が行った調査では、売春業に従事する専業女性はおよそ、27万人にも上り、その経済規模は約15兆ウォンで、その経済規模はGDPの約2%に当たる規模であるということである。(『韓国経済が完全崩壊するこれだけの理由』三橋貴明著 WACBOOK)2003年にこの状況で、いかに今から70年前の朝鮮で、たとえ甘言や強圧の勧誘があったとしても、 相当数の女性が慰安婦と言う職業に流れ込んだとしても、それはその時代の経済的な状況から考えれば、一つの必然であったと言えるのではないのか。その後の日本の韓国に対する経済援助や1965年の日韓基本条約における日韓請求権協定の解決を考えれば、果たして朝日新聞や吉見義明氏が主張する通りに、日本は未来永劫に亘って、被害者に寄り添う姿勢を保ち続けるべきなのか。そしてそれが本当にこの慰安婦問題の本質なのか。皆さんにもよく考えていただきたい。