龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

憂鬱なる神学 3

それで何だったっけ。そう、だから誰か、宗教の信者に勧誘された時にはこのように答えなければならない。あなたが私を救うというのであれば、先ずあなたがあなたの宗教によって、見事に救われて見せてください。あなたが真に救われた時には、私の幾分かも救われていることでしょう。そういうことは自然とわかるものです。なぜなら人間の魂は皆、濃く薄く、緩やかにであれ、つながっているのですから。そして、その時には私は人類を代表して、あなたに感謝しなければならないでしょう。そういうことなのです。あなたは自分は救われた人間だと考えているのかも知れませんが、それは間違っています。あなたが真に救われていないからこそ、あなたは、その穴埋めに私を勧誘しているのです。そしてそれがあなたの宗教の正体なのです、と。このように言えば、知性の劣る大抵の信者は、話しの内容を理解できずに、目を白黒させて、しどろもどろになることであろう。或いは、話しのわかる人間であっても、侮辱されたと考えて顔を真っ赤にして怒り出すか、殴られる可能性もあるので、そういうことは実際には言わない方が賢明である。しかし宗教とは、本質的にはそのような性質のものであることは、真実である。宗教は偽善である。しかし偽善の中に、一抹の真理がないということもできない。宗教とは、人為的に希釈されて拡散されるところの神仏という観念の上澄みであり、人間が宗教という権威を通さずに神仏の領域へ踏み込むことを妨げるためのバリアーのようなものであると私は考える。つまり宗教とは、極めて社会的な存在なのである。社会と共存するのが宗教であるなら、社会が偽善的であれば、当然、宗教にも偽善の要素は含まれることとなる。ここにおいてオウム真理教のように、反社会的なカルト宗教がいかにも「本物」らしく見えてしまうところの危険性があると言うことができるであろう。私のように信仰心を持ってはいても、端から「宗教」というものを否定しているような人間は、カルトであれ、正当な宗教であれ、騙されたり取り込まれることは有り得ない。そこに偽善性がないからといって、宗教的に正しいと考える思考回路を持ち合わせていないからだ。ところが正しい宗教と間違った宗教があると思い込んでいて、尚且つ宗教に救いを求める人間の一部が、カルトにやられてしまうこととなる。またそういう人々を取り込むために、新興宗教の教義は、斬新で、閉塞感のある社会からの脱却という幻想においても、いかにも本物らしく見える内容に発展していくこととなるのだと考えられる。宗教とはいつの時代にあっても、本質的には社会(政治)との対比において意義を持つものである。私は押し並べて、宗教を悪だというつもりはない。しかし正しい宗教と、間違った宗教があるとも思わない。乱暴ではあるが、一口で言い切ってしまえば、宗教とはそういうものなのである。なぜなら宗教とは、救済を旗印にしていても、前回にも述べたように神仏の概念を利用して、人が人を支配したり、優越する性質から離れ難い側面を有しているからだ。しかし世の中には、魂の救いをもとめて苦しんでいる人もたくさん存在するものである。この現実をどのように考えるべきであろうか。人間とは、美しい包装紙で丁寧に包み込まれるデパートの商品のように、何らかの宗教団体の枠組みに属さなければ、救われないのだろうか。私はそうは思わないのだけど、そういう風に考えている人の方が多いようにも感じられる。個人的な経験で言えば、私は人生の一時期に神について集中的に思念し続けた。もちろん集中的と言っても、日常生活の中においてであるから、日々の仕事のことや、人間関係、生活など雑多なことが頭の中を占めていて、その合間を縫うようにして神について、そして神と私という人間の関係性について、ひたすら延々と考え続けるのである。そのような時期が3年から4年の間、続いた。これは一つの行である。どうしてそのような行をしていたのかと疑問に思われるであろうが、自分でも説明するのは難しいが、今から思うにその当時は、人生の諸問題や生きることの焦燥感、苦悩に深く苛まれていて、何らかの方法でそのような状態からブレイクスルーする必要性に迫られていたというか、追い込まれていたからだと思われる。とは言っても、神についてただひたすら思念し続けるという方法については、誰かに教えられたり、何かの本を読んで得た知識ではない。単に自分で思いついて、それを実行しただけのことである。それでその結果、何らかの変化があったのかということについては、これまた他者に説明することが非常に難しいものである。誤解や語弊があるかも知れないが、敢えて分かりやすく言えば、もし私以外の誰か(その誰かとは宗教的な救済を必要としている人である)が、私と同じような行を為したとすれば、その人はおそらく変わらずにはおれないと思われるものである。ある一つの沈滞した精神状態に留まり続けることが不可能で、自然と高揚され、活性化した精神と共に生きざるを得ない変化が得られると考えられるものである。そして、どのような凡庸な人間でも、その行を完遂して突き抜けた時には、表面的な見掛けは何も変わらずとも、内面的には凡庸ならざる人間に変わっていることであろうと思われる。嘘だと思われるのなら、実際に試して見ればよいことです。しかし誰もが私と同じようにその行を3年とか4年の間、継続できるかと言えば、そうも思えないものです。これまた実際に試して見ればわかることですが、そのような生活は1日や2日は難しくはないでしょうが、1ヶ月や2ヶ月続けるとなると大変です。大変という以上に多くの人にはほとんど非現実的だと思われます。ましてや3年という月日を継続させるとなると、ほぼ不可能でしょう。しかし私はそれを為したのです。何も自慢している訳ではないが、私はおそらくこの世に生まれついた時点で、既にある種の求道者だったのでしょう。だから自然とそのような道のりを歩んだのだと思われます。とは言っても、私とて千日回峰行のように、何年も不眠不休で野山を走り回るような荒行は、不可能という以上にやろうという気にすらなりません。千日どころか2日も持たないでしょう。同じように人間はそれぞれ一つの機縁の中において生かされているものですから、私に出来たことが必ず私以外の誰かに出来るというものではないであろう。しかし私が為したことを同じように誰かが行えば、必ず同じような変化が得られることと思われます。但し、行というものはどのようなものであっても、生きるか死ぬかの気概で臨まなければ、中途半端に行っても何一つ得るところはないものと言えます。結局、何が言いたいかと言えば、人間はそれぞれの機縁に従って多様な生活を営んではいるが、神仏との関係性という一点で見れば、そこにある真理とは即物的な平等性であって、神や仏は誰かを選んだり、排除するものでは有り得ないということである。そして宗教の教義や奥義に従って、何か特別なことをしなければ神仏との関係性を強化したり、顕在化できないというようなものではなくて、私が為したように単なる思いつきで、宗教とは無関係にただひたすらに神を思念し続けるような方法であっても、継続することさえ出来れば、必ず変化は得られるものだということである。それでは、より具体的にどのような変化が得られて、何が変わらないのかということについては次回に続く。