龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

弱者と強者の論理

一口に強者であるとか、弱者などと言っても、その定義付けは難しい。しかし思うに、自分を差し置いて社会が悪いとか、世の中が間違っているなどと言える人間は、或いはそういう風にはっきりと言い得る境地は弱者ではない。よって言い換えれば、社会的弱者とは世の中や政治のせいに出来ない立場の人間であるということができる。弱者は人生におけるあらゆる不幸や失敗の原因全てを自分自身に引き受けて、忍従することを当然のこととして生きていく人種である。
ここには一つの普遍的な真理がある。自分は悪くない、悪いのは社会であり、その社会を司っている政治だ、と明言した途端に人間は弱者から強者へと「質的な変換」を遂げ得るものである。それなら弱者よりも強者の方が良いではないか。では多くの人はなぜ強者になろうとしないのか。その理由ははっきりとしている。弱者は全ての問題は、「自分の内部」にあるという教えに飼い馴らされ過ぎてしまっているがゆえに、強者というものの存在性がよくわからないのである。強者を理解できないということは、実は自分が弱者であるという自覚もまた薄いものである。よって世の中が悪いなどと言明して、強さを志向する動機が弱者には欠如している。その一方でヤクザのように社会の辺境やアウトサイドに位置する人種は、概して言えば自分が悪いとは考えていない。社会が悪いと表立って言わないまでも、恐らくはそう考えながら生きている。そう言う意味ではヤクザは強者であり、実際に社会の本質を一般人よりもよく理解している。もちろんこれは善悪を度外視してでの話しであり、強者だから偉いとか、弱者は不甲斐ないというレベルの考察ではない。しかしそれでも社会的な強者と弱者の精神構造上の違いというものを明確にする意義があると思うから私は述べているものである。
一般大衆が強者の精神を選択しないもう一つの理由は、いい年をして社会が悪いなどとは、負け犬(組)の言い訳のようであり惨めで、みっともなく見えてしまうということがある。社会に責任転嫁をなすことは、精神の未熟な子供の振る舞いであり、大人はそういうことに対して節度と良識を持たなければならないとする共通の倫理である。この理由は極めて強力であり、また特に日本的であるとも考えられる。日本人は個として強くなるよりも、世間体が損なわれることを忌避する傾向が強い。そういうところから日本人は、社会(政治)の矛盾や不条理、不合理などを内的に消化することができなくとも、どんどんと受け入れて、飲み込んでいく。しかし必ずしもそれらの葛藤や矛盾を墓場まで持っていく訳でもない。順風満帆で生活が安定している時には黙って受け入れているが、何らかの理由で自分が絶体絶命の境遇に陥った時には、それまで認めていたはずの社会矛盾を急に持ち出してきて、社会正義の実現のための批判が繰り広げられることが多い。強者に転じなければならない必要性に迫られることによって、自分がそれまで弱者であったことを突如として悟るのである。極端な例で言えば、死刑に処せられた永山則夫のようなケースが典型的である。死刑囚になってから獄中でたくさんの書物を読んで追求し、自分の犯罪は無知と貧困が原因であったなどと世間に訴えても、確かに内面的には強者に転じている部分もあるかも知れないが、それでは遅いのである。死刑囚はある意味、特別な存在であるが、一般的には裁かれる身になってから社会批判を始める人間に対して、世間の目は冷たいものである。自分の罪を正当化するために社会批判を行っているのであれば、それは偽善以外の何物でもないのだから仕方のないことであろう。
よってこれらの考察から得られる教訓は、人間は世間や権力に裁かれる身でない善良なる境遇においてこそ、強者を目指さなければならないということだ。強者であることの条件とは、不幸や貧困などの原因の全てを自分自身に引き受けないという単純なことである。不幸や貧困そのものは犯罪でも悪でもないのだから。世間からは居直っているように見られ、嘲笑されるかも知れないが、それでも自分は悪くない、悪いのは社会だという勇気も必要だと私は考える。特に日本人こそ、その勇気が鼓舞されなければならないのではなかろうか。しかし世の中はうまく出来ているものである。ごまかされてはならない。基本的には社会の仕組みは、個人が政治の矛盾や不条理を接受し、それぞれの不幸として引き受けなければならないようになっているものである。意図的に設計されているかどうかはともかく、そのような均衡点に自然と収束していく流れになっている。よって社会(政治)批判するにはそれなりの知性がなければ、批判の出発点にすら立てないものである。我々の身の回りには、あらゆるところに巧妙な洗脳がある。
たとえばである。今では少し下火になっているが、スピリチュアルブームというものがあった。テレビでは有名な霊能力者がにこやかに登場して、いろいろな芸能人の前世を言い当てていた。そしていつも決まり文句のように、こう言うのである。「全ては必然なのです。この世に起こることに偶然というものはありません。」さて皆さんはどのようにお考えであろうか。スピリチュアルの思想と言うものは、全て自分が選択している現実を経験しているという見方が基本となっている。人生の途上で経験する出来事だけでなく、自分が生まれてくる親や時代、国籍、性別までも自分で決めてこの世に生まれてくるという。因みに私はそのような考え方を一概に否定するものではない。あの江原啓之という人物に対しても私は、会ったこともないし詳しく知らないが、決してインチキだとは思わない。インチキであるどころか、その霊能力は本物であるし、そういう世界は確かに存在する、というより敢然と否定することは難しいと言える。江原啓之氏もTVで見る限り悪人ではないことは明らかだし、表面的に善人を装っているようにも見えない。しかしである。肝心なことは彼の言っていたような物の見方、考え方はあくまでも一面の真理である。一面の真理で現実世界の全てを説明し得るようなものではないということを我々はよく肝に命ずる必要がある。全ては必然であり、偶然はないなどと言っても、それは結果論的な一つの世界の見方に過ぎない。たとえば江原氏は何かの本で、子供が幼くして病気や事故で亡くなる不幸にも意味があって、それは霊的には短い年月で親から集中した愛情を得るという経験を得るためのものだと述べていた。これはどうなのだろうか。確かにそのような解釈は、愛する我が子を幼くして亡くした親からすれば、心慰められる励ましとなることであろう。そこには江原氏の人間的な優しさや思いやりが満ちているとは思う。悲しみや不幸の意味を肯定的に解釈して残された者が前向きに生きてゆくという道徳律においては、その見方は社会的に奨励されるものであろう。しかし現実には、幼くして親から暴行を受けて死んでいく子供も存在するし、今の日本ではそういうケースが増えていく兆しにあるものである。子供が親を選んで生まれてくるのであれば、どうして自分を無残にを殺すような親をわざわざ選ばなければならないのか。そこに一体どのような意味と必然があるというのか。戦争で死にゆく者についても同様である。広島では原爆の投下で一瞬にして数万人以上の人間が亡くなったが、それでは霊的な解釈ではそこにどのような肯定が認められるのか、何の必然性があるのか、詳しく説明していただきたいものである。答えられないだろう。そういうことに答えられないのに、芸能人の前世がどうのこうのと本当か嘘かわからないようなことを興味深く説明することに何の意義があるのであろうか。私が言いたいことが何かわかるであろうか。スピリチュアルとか霊能とか占いとか、そこに共通して伏在する本質とは何か、ここまで言えば分かる人には分かることであろう。それは「非政治性」である。現在の日本だけではなく、古今東西において常にスピリチュアルや霊能は権力側のサイドに位置するものである。これが理解出来るかどうかが全てであると言っても過言ではない。自分が生まれてくるところの時代や親まで自分自身で選んでいるのであれば、たとえ虐待されて殺されたとしても、原爆で焼き殺されてもそれは自己責任である。究極的には政治には何の責任もなくて、個々の魂の因果が全てである。政治が悪いなどとは決して言わない。それが神秘主義や霊能世界の本質である。だから政治は宗教や神秘と結びつくものである。手相見が街角で客に対して、あなたの人生が浮かばれないのは今の政治が原因ですと言えば、その時点で占いは成り立たないのである。全てはその人間に因果がなければならない論理である。江原氏も自分の前世は江戸時代の太鼓持ちだと言っていたが、私はその点は正に江原氏の正直さを表している告白だと思って思わず笑ってしまったものである。太鼓持ちとは殿様や権力者に付き添って、言うなればご機嫌伺いする者である。当然、コミュニケーション能力は必要とされるが、今の江原氏などもそのような能力は卓越しているが、それはあくまでも体制や権力に擦り寄る性質のものでしか有り得ない。結局、占いとか霊視などは全ては否定し得ないまでも、全ては自分が悪い(つまり何でもかんでも自分自身が選択した現実である)として政治批判させないための操作なのである。そしてそういうことを自分の頭で考えて真に理解できない人間が「弱者」なのである。しかし弱者も自分を離れて、社会批判することによって、つまらない占いや霊能力に必要以上に影響されない人間に生まれ変わることができるのである。弱者は自らの運命に虐げられる。強者こそが自らの運命を変革し得るのである。だから我々弱者は、より一層の弱者のために更なる政治批判をし続けなければならない理屈となる。お分かりでろうか。強者であるか弱者に甘んずるかは生来的なものではなくて目前の一つの選択に過ぎないということだ。