龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

花村萬月の『皆月』

気分転換に最近読んだ本の話しでもしようかな。政治のことばかり記事にしていると一人で腹が立ってきて血圧は上がる(本当の話し)は、深く絶望する(これも本当)はで、個人的には良いことは何もないのである。本当に日本は、あれだな。あれと言うのは、希望がないということである。現実ではなくて文学にでも、希望を見出すことにするか。
数は多くはないが、本はいろいろと読んでいる。最近読んだ小説で心に残ったものを紹介させていただくことにする。花村萬月氏の『皆月』(講談社文庫)が心に染みた。みなづきと読む。石川県輪島市の地名である。思わず旅に出たくなるような小説だったな。花村萬月の小説は、これまで数冊程度読んだだけであったが、その印象は過剰な性と暴力の描写が特徴となっているものだが、正直に言って、純文学というよりもどちらかと言えば、漫画の原作に近いテーストが感じられて、まあ面白くはあるのだけど深く心が揺さぶられるというほどではなかった。優れた原作ではあるけれど、読み捨ててすぐに内容を忘れてしまうような漫画とでも言うのかな。だからそれらの小説のタイトルも覚えていない。しかし『皆月』は違った。読み始めから途中ぐらいまでは、いつものパターンでちょっと漫画チックな感じがあって、幾分、冷ややかな思いで読んでいたのだけれど、後半からはその虚構世界のリアリティーというのか説得力に完全に打ちのめされてしまった。そして読み終えて見れば、その読後感の余韻は、これはもう一級品の純文学である。ちょっと簡単には内容を忘れられないような作品となっている。この『皆月』という小説で、私は花村萬月の小説家としての才能の本質を見たような気がした。当然、作品によって出来、不出来はあるであろうが、読み易く、取っ付き易い一見漫画チックで大衆性の高い導入部分から、読み進むにつれて人生の苛烈な運命や人間の業の哀しさ、おかしさをユーモラスに表現する正統的な純文学の奥まった世界へ、自然と読者を導いてゆくレンジの広さとでも言うか、その瀑布の如き落差のエネルギーがもたらすある種の包容力が、花村萬月という表現者の底力なのである。時にあまりの過剰、露骨ゆえに鼻につくようにも感じられる性と暴力の描写も、『皆月』に関して言えば、解説で阿刀田高氏が述べている通りであるが、この小説にあってはまったく読者に媚びていない性と暴力の表現なので、いやらしさがないという以上にどこか清潔感すら感じられる程なのである。
いやあ、それにしてもこの小説は素晴らしかった。よい小説というものは、読んでいて、紙という二次元の平面から確かに、登場人物たちの息遣いであるとか微妙な感情を含めて、会話内容の自然さや運命の必然性といったものまでが匂うように立ち上がってくるんだな、これが。それがよい小説の特徴である。よい小説は、小説そのものが躍動的で生き生きとした生命力を持っているんだ。これから読む人もいるかも知れないので簡単に内容を紹介させていただく。
主人公の諏訪徳雄は、40歳になるごく平凡でコンピュータおたくのサラリーマンである。橋の強度計算をする技術者であり、童貞で妻の紗夜子と結婚したような真面目なだけが取り柄の男であったが、マイホームの購入を夢見る紗夜子と協力して、質素に慎ましくも幸福に暮らしていたのであった。それがある日、何の前触れもなく、それまでコツコツと貯めてきた1千万円の貯金とともに紗夜子が蒸発してしまったのである。奇妙な書置きを残して。
みんな、月でした。
がまんの限界です。
さようなら   紗夜子
という書置きである。この謎めいた言葉の「みんな、月」がこの小説のタイトルであり地名の皆月と結びついており、読後に読者の心を揺すぶる伏線となっているのである。深い挫折感とともに仕事も金も失った諏訪は、紗夜子の弟でヤクザものゆえにそれまで距離を置いた付き合いをしかしてこなかったアキラの世話になるようになる。アキラの住むマンションに住まわせてもらい、アキラから紹介された歌舞伎町内にあるヤクザの事務所で働くこととなる。諏訪はアキラと共に紗夜子を探す旅にでることを計画する。持ち逃げされた金を取り返すためと、黙って蒸発した紗夜子の前で、自分はちゃんと存在していることの「人間宣言」をするためにである。女房に逃げられた男が、女房を探し出して人間宣言をするなどとは、世間一般では馬鹿にされることにしかならない情けない動機であるが、諏訪の周りのヤクザたちは筋を通そうとするその姿勢に敬意を抱くのであった。その後、諏訪はアキラに連れられて行ったソープランドで知り合ったソープ嬢の由美になぜか惚れられ、由美と同棲を始めることとなる。由美との幸せな生活で一時は紗夜子を探すことをやめようとも思うのだが、結局はやはり人生に一つのカタをつけなければならないと考えて、諏訪は由美に全ての事情を打ち明け、アキラと紗夜子を見つけるために旅立つことを決心するが、何と出発の当日になって由美もついてくることとなる。そこから3人の車でのロードムービーならぬロードノベルが展開してゆくこととなるのだ。これは人生に打ちのめされた一人の男が再生してゆく話である。とてもよい話である。しかし人間宣言か。そうだな、人は誰もが何物かに対して、自分がきちんと存在していることの人間宣言をどこかでしなければならないんだよな。いや、よい小説であった。