龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

漫画とアニメ

偏見だと批判されることを承知で言えば、漫画やアニメなど大人が見るものではないと思う。人様の趣味はそれぞれなので家の中で見るのは勝手であるが、いい年をした大人が電車の中などで漫画雑誌などを読み耽っている姿はみっともないと私は思う。個人的なことを言えば、私も10代と20歳代前半ぐらいまでは自宅で漫画やアニメをそれなりに見ていたが、それ以降はごく希にしか見た記憶がない。もちろん子供が小さな頃は一緒に、ドラえもんとかちびまる子ちゃんを見ていたが、大体において私は漫画、アニメの類が好きでないというよりも、子供が見るものだと考えている。よって大人が積極的に漫画を読んだり、アニメを鑑賞することに対しては、私は基本的には幼児性の現れではないかと否定的に考えている。かと言って現在の私も全く無視している訳ではなく、世間で一つの社会現象と言えるほどのブームになっている『進撃の巨人』などは、そのブームの謎に迫ろうとして,kindleの電子書籍をamazonから購入してはみたものの、買ってから数ヶ月も経つが、未だ第1巻の3分の1も読み終えていない。絵を見ていると何故か居たたまれない気持ちになって、ページを繰ってゆく気持ちになれないのだ。読み進める内に面白くはなっていくのであろうが、その段階までが耐え難いのだ。よってアニメも単に食わず嫌いだと言われるかも知れないが、宮崎駿監督の作品など見たことがないし、見たいとも思わない。但し子供に見せるためにDVDを買って、一緒に何となく見ていたことはあるが、あまり面白いとも思えなかった。そう言えば、北野武さんもアニメは嫌いだと言っていた。嫌いだけれど宮崎駿作品のようにあれ程、売れているものなら認めざるを得ないとも。私と北野さんの感覚にはどこか近いところがあるのかも知れない。しかし私は業界の人間ではないから、売れているから認める(肯定する)という感覚はない。どうして私がアニメが苦手なのかと言えば、恐らくはアニメや漫画の起源とは、大人が子供に対して教育上、信じ込ませたい世界観を一方的に吹き込むための手段であったであろうという認識があるからだと思える。現在においては様々な無数のアニメ、漫画が存在するが、全てはその出発点から分化して発達してきたものではないのか。ディズニーのアニメなども同じである。愛と夢に満ち溢れているが、それは大人が子供に対して世界とはそのようなものだと安心させてあげたい気持ちから創られているのであろうと思う。それはそれで良いとして、私も親の立場としてはまったく同感であるが、何で大の大人がそのような世界観に自ら積極的に浸ろうとするのか、その気が知れないのである。そこにはやはり大人の幼児性、つまり空想的な非政治性が精神の核心となっているように感じられるのである。それともこういうことを言う私は、性格がひねくれているだけなのであろうか。その可能性もまた大いに有り得ることは認めなければならないものであるが。
さて前置きが長くなったが、何が言いたいのかと言えば、宮崎駿氏が百田尚樹氏の『永遠の0』を戦争や特攻隊を美化していると批判して、両者の間はバトル状態になっているようだが、私は宮崎駿氏のそのような批判は、正直に言ってアニメ世界特有の幼児的な正義感や道徳観念の延長上にある感覚ではないかと思えてならないのである。こういうことを言えば大いに嫌われるであろうが、アニメに現実世界の矛盾や紛争を解決する力など皆無であるし、もっと言えばアニメには人生の現実に即した道徳律や正義感すら存在しない。そこにあるものは大人が子供の成長に対して願うような、こういう世界であって欲しいと希望する個人的な価値観のような類のものではないのか。もちろん個人的な価値観であっても多くの人が共有することとなれば、そこに普遍性があるように錯覚することとなる。しかしアニメ的な錯覚が政治性や政治批判に結びつくことの方が、その大衆性や感染力の高さゆえに、小説中の政治解釈などより余程、危険ではないのか。重要なことなので繰り返すが、アニメの世界に現実に通じる正義や道徳はない。ディズニーランドのアトラクションの如き、愛と夢と希望が存在するだけである。