龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

百田尚樹氏と宮崎駿氏の対立

そもそも百田尚樹氏と宮崎駿氏のバトルに関して見れば、私は詳しい経緯は知らないのでもし間違っていたら申し訳ないのだけれど、2013年に宮崎駿氏のアニメ映画である『風立ちぬ』が公開されるに先立って、韓国などから実在の零戦の設計者が主人公になったアニメが作られていることに対して警戒の動きがあって、それに対して当初は宮崎氏やジブリ側からの釈明がなされていたようであるが、それがいつの間にか同じく零戦をテーマにした小説『永遠の0』で大ヒットをしていた百田氏を宮崎氏が批判することになっていたものである。傍目に見ていると、宮崎氏にどのような圧力があったのかは知らないが、『風たちぬ』を制作したことの韓国側の批判の矛先を百田氏に振り向けさせるために、宮崎氏が百田氏の批判を始めたようにも見えるものであり、個人的にはとてもではないがよい印象は受けないものである。私が見るところでは、百田氏は口は悪くとも根は純粋な人間であって、当初は宮崎氏のそのような意図がわからずに自分が批判されても零戦が出てくる『風立ちぬ』のシーンなどに感動し、賞賛もしていたようであるが、さすがに時間とともにその政治的な策略の動きに気づいて激怒し始めたようにも思えるのである。もちろん実際の微妙なところはわからないが、仮にそうであれば(その可能性は高いと思われるが)、百田氏が怒るのも無理はないものである。宮崎氏は自分の作品についてだけ弁明していればよいのであり、それを百田氏の作品内容を批判することで防御の砦となすような姿勢は狡猾そのものであり、子供たちに夢と希望を与える映画を制作する人間が取るに相応しい態度ではない。百歩譲ってそうでないとしても、同じ零戦をテーマにした作品の表現者として、自分との政治的な思想や立場の違いを明確にするために相手側を批判する態度そのものが私はどうかと思う。そういうことは鑑賞した人間が、それぞれに判断することではないのか。宮崎氏が右翼なのか左翼なのか知らないが、実際にはどちらでもないのであろうし、またそんなことはどうでもよいが、いわゆる左翼的な運動というものの特徴は朝日新聞などのメディアの報道にも共通することであるが、どうも小細工を弄するというのか老獪に立ち回るところが目について、私ははっきり言ってそういうところが気に食わないのである。思想とか信条以前の問題ではないか。そこにあるのは単に処世術だけである。百田氏はこれ以上、宮崎氏を相手にするべきではないと思う。これ以上に関わると全体的な政治の流れの中で、「悪者」に仕立て上げられていくだけのことである。もう既にその兆候は現れているようである。日本はそういう国なのである。皆さんはどのようにお感じになられるのであろうか。