龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

洗脳の道具としてのアニメ

アニメは作者やクリエイターの人たちは、純粋にいいものを創ろうとしているだけなのだろうけれど、その作品が政治利用されることはあると思う。前回、前々回アニメについて述べていて思い出したことがある。子供が小さな時分、小学校低学年の頃は、私は離婚問題でもめていて調停や裁判などで大変であった。元妻とは別居していて、子供は週末などに私が住んでいる実家にやってきて私の両親も一緒にご飯を食べて泊まっていった。そして当然そのような時には子供は食事時などにテレビを見る。子供が見るものだからアニメが多い。フジテレビ系列で放送している「サザエさん」とか「ちびまる子ちゃん」は、ご存知の通りやたらと大家族なんだよな。父親と母親がいて、おじいちゃんとおばあちゃんもいて、サザエさんでは娘(サザエさん)の旦那のマスオさんまでが一世帯で同居して仲良く暮らしている。ちょっと今の日本では考えられないような光景である。ところが朝日放送系列の「ドラえもん」になると途端に家族の影が薄くなる。特に父親の存在感というよりも存在そのものが見あたらない。果たしてのび太の父親はいるのであろうか。いるという話しは聞いたことがあるが、少なくとも私はアニメの中で見たことがない。それで私は勝手にのび太家は母子家庭ではないかと考えていた。その割にはわりと暮らし向きは良さそうだな、とかどうやって生計を立てているのだろうか、こんな立派な家に住んでいるのだからまさか生活保護を貰っているようなことは有り得ない、ドラえもんが稼いできているのだろうか、などとそんな夢のない馬鹿なことばかり考えながら私はぼんやりと子供と一緒に見ていたのであった。それでフジテレビ系列の「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」の一家団欒と朝日放送系列の「ドラえもん」での家族関係の欠如、或いは父親の不在というもののアニメにおける家庭の描かれ方の両極端が、私にとっては何とも身につまされるような肩身が狭いような思いであった記憶がある。もちろん私の息子はそのようなことなど何一つ考えずにアニメを楽しんで見ていたのであろうが。それでもアニメの世界観が、見る人間(特に子供たち)の潜在意識に訴えて、記憶とともに精神性の形成に影響を与えている部分もあるであろうと思う。そうは言っても私は原作者の、長谷川町子さんやさくらももこさん、藤子不二雄さんなどには何ら政治的な意図があったとは思えない。同じ原作者の作った漫画であっても作品によって当然に登場人物の背景や家庭環境は変わってくるものである。しかしそのような特定のアニメを何年にも亘って延々とテレビで流し続ける放送局には明らかに政治的な目的があるという以上に、政治的な目的しかないのだと思う。もちろん作品が優れていて多くの人に愛されているからだという理由はあるが、それでもマスコミの特定のアニメ作品とその世界観にたいする偏執はちょっと異常である。朝日新聞を購読している人ならわかるであろうが、ドラえもんのキャラクターは朝日新聞の朝刊一面にまで毎日、登場しているものである。「新聞をひらいてこたえをさがしにいこう」とドラえもんが読者に言っているのである。これは明らかに洗脳工作ではないのか。日本のマスコミは自分たちが望ましいと考える世界観や政治解釈を特定のアニメ作品に投影させて放送し続け、国民への影響力を行使しているものである。宮崎駿氏の『風立ちぬ』が当初、韓国から警戒感を持たれて、何らかの圧力があったのかなかったのか知らないが、その後しばらくして百田尚樹氏の『永遠の0』を批判しだしたことは、そのような日本の状況と無関係ではないと思う。もちろん『風立ちぬ』の影響(私は見ていないので詳しい内容は知らないが)で日本が軍国主義に戻ることなど有り得ないものであるが、アニメの潜在的な影響力というものは、小説などよりはるかに洗脳の道具として適しているところは確かにあると思う。そういうところを韓国のように品のない悪辣な国に指摘されて、ビビるか焦るかしたあまり過剰な反応を示して、批判の矛先を転じさせようと百田尚樹氏の『永遠の0』の悪口を言い始めたのではないかと私は見ている。もしそうであれば世界的な表現者とすれば、情けない姿であると私は思う。