龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

朝日新聞のレーゾン・デートル

あいちトリエンナーレの企画展が3日間で中止されたことに対して、8月10日の朝日新聞、朝刊11面のオピニオン&フォーラムでは、3人の識者の見解が掲載されているのであるが、その中で黒瀬陽平さんという美術批評家は、「対話を生み出すのが芸術」という見出しで、“芸術とは本来、作品を通じて様々な「対話」を生み出す力を持っています。テーマやモチーフがどのようなものであろうと最終的には観客が作品を通じて問題の内部に入り込み、感じ、考えるための仕掛けが必要です。”と述べている。私はこの「対話」という言葉が気になって、看過、放置することが出来ずにこの記事を書いているのであるが、朝日新聞や、毎日新聞もそうであろうが、この対話というキーワードを紙面で多用したり、誰かのコメントから引き出させることで世論形成を図っていることが多い。それでは具体的に聞くが、そして一人でも多くの国民の皆さんに考えていただきたいことであるが、観客が昭和天皇の写真に火がつけられて燃えていく映像を見たり、「平和の象徴」であるかどうかはともかくも、慰安婦像と対峙することによって、そこにどのような「対話」が成り立つというのか。そこに本当に芸術作品とそれを見る者の心的な反応としての対話が生まれるであろうか。私にはとてもそうだとは思えない。そこにあるのは政治的な押し付けか、もっとはっきりと言えば、洗脳行為である。それを表現の自由や、対話という言葉で説明しようとすること自体が、さらに輪をかけるように純粋な芸術性から乖離した政治行為ではないのか。朝日新聞の論調はいつもそのような傾向性を有するものであるが、国民がむげに否定し難い言葉や感覚を利用して、その政治性なりイデオロギーを国民の日常的な感覚や良識の中に流し込もうとするものである。というよりも朝日新聞と言う報道機関は、いわゆる日本人の日本的な心や良心を組み替えるために日々、情報を発信していると言っても過言ではないとさえ私は考えている。と言っても何も私も、日本的な心や良心が必ずしも美しくて正しいなどとは思ってはいないから朝日新聞毎日新聞がそれをより高度な倫理観で正しく世論を訓育したり、正そうとする姿勢そのものは、言論や表現の自由の範疇に属しているとは言えるであろう。ただし日本の新聞社やTV局は本当の競争原理に晒されていないから、その有り難くもご親切なイデオロギーが淘汰されることなく恒久的に世論の支配者として君臨し続けていることは日本の深刻な弊害であろうが、それはまた別の次元の問題である。報道姿勢としてどれほど偏向していようと、或いは反日であっても、朝日や毎日がその中核的な志向性を外部的にも内部的にも社としての土台、根幹のレーゾンデートルとしてはっきりと認めて主張を戦わせるのであれば、民主主義的な論点やテーマは明確になるもののはずなのである。誰にでもわかる説明で言えば、朝日や毎日は、我々は日本ではなく常に韓国の利益と立場で報道している新聞社ですとはっきりと認めることが出発点になるべきではないのか。そこを曖昧にしたり、誤魔化そうとするから、到底、対話が成り立たないことに対話を要求し続けるというような、世論誘導、操作などの洗脳をしているだけの報道内容以上のものには成り得ないのである。そこにあるのは国民の精神と認識能力を低下させる偽善、欺瞞が風呂場のカビのようにはびこっているだけである。というよりももっと本質的に言えば、戦後の日本の報道や情報とは朝日新聞だけでなくて、読売も産経もNHKもそうであるが基本的には全てが洗脳工作なのである。日本の報道機関ではあるが、日本人のために存在しているとは言えないものなのだ。それゆえにNHKや朝日が日本的な権威の象徴になったりもするのである。今の朝日新聞は落ちぶれてきてはいるが、それでも政治的に保護されているので途轍もない影響力を有していることに変わりはない。我々国民に何が出来るかと言えば、そのような朝日新聞的な一言一句の誘導、洗脳を暴き続けることで、社、自らが報道機関としての存在価値に疑問を生じるように仕向けていくことである。意識と認識上の戦いだ。私がしようとしていることは、そういう性質のことである。