龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

愛知県知事は罷免されるべきだ

愛知県の知事は、かなり程度が低いようだな。こんな人間を知事に選んだことを愛知県民は心から恥じるべきだ。何が憲法21条の表現の自由だ。そんなことは小学生だって言えるぞ。そもそも憲法の条文だけで、機械的に社会の秩序や公序良俗が保たれるのであれば、政治などは不要の存在なのである。表現の自由であろうと、不自由であろうとそういう題目はどうでもいいが、我々国民やその代表である政治が警戒しなければならないことは、芸術や表現の自由の名のもとに、中立性や公共性を破壊するような政治運動、政治文脈が社会全体に浸潤してしまうことではないのか。そのような文化活動が公的に実施されることに対して、政治家がこれは良くて、これはだめなどと言うことは間違っているなどと主張することは、政治が表現の自由を守っているというよりも、その表現の政治性を擁護していることと同じである。もちろん全ての表現や芸術から政治性を排除することは不可能であるし、政治性が皆無の芸術と言うものも存在しないということは言えるであろう。歴史に残るような偉大な芸術作品であっても、たとえばピカソが描いた『ゲルニカ』のように色濃く政治性が感じられるものは多い。しかしその是非は主に後世の人間が、芸術性と政治性を天秤にかけて妥当性なり価値を評価するものであって、現下の政治が表現の自由という建前のもとに特定のイデオロギーの社会への浸潤、浸食を守る立場を取るのであれば、本来の政治は二次的、副次的なものに過ぎない状況を推進しているだけではないのか。そういうことがわからない人間が何の自覚も、問題意識もないままに知事を在任しているのでは、誰よりも哀れなのは自分自身ではないのか。言い過ぎでも何でもなく、これは明らかに辞職相当である。

その上で大村愛知県知事に問い質したいが、仮に「あいちトリエンナーレ2019」において大村氏自身や大村知事の家族の写真が燃やされる映像が芸術作品として展示されていたとしても、これは良くて、これはだめなどとは言えないという表現の自由の観点から黙って看過するのか。昭和天皇ではなくて徳仁今上天皇や雅子妃の写真が燃やされている作品でも芸術として認めるのか。昭和天皇であるならば許容範囲であるというのであれば、その政治性ではない芸術性の境界はどこにあるのか。天皇制に反対する人は認めないであろうし、私自身も天皇や皇室にさほど親しみを感じるものではないが、それでも天皇が、日本人全体の共通の家族として位置付けられていることは否定できないことであろう。国家や国民の道徳感覚、倫理観を激しく毀損する政治活動を芸術として、一政治家が認めるのであれば、一体何のための憲法であり、政治であるのか、そういうことを大村知事はよく考えるべきである。また愛知県民はこのような知事の責任を厳しく追及していくべきだ。