龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

報道の政治性に責任は伴わないのか

言論の自由は尊重されなければならない。それは自由主義国家にとっては、当然のことだ。しかし日本の問題とは何なのであろうか。漸くにして私の認識は、日本の言論の病巣が、その輪郭を水面下から浮かび上がらせるように一つの像を結び始めてきた。簡単なことではあるが、日本の新聞やTVなどのいわゆる公共性が高くて、影響力の強い報道機関の政治的な主張や世論誘導が、言論の自由を濫用するばかりで、その結果責任については、我関せずで無視し続ける状態が戦後、ずっと継続されていることではなかろうか。日本の報道とは、本質的には国民に客観的な真実を伝えることではなくて、まるでゴミを路上に投げ捨てるような「その場限り」の政治的な主張なのである。一時的にでもゴミを出すであれば、出した人間がそのゴミを拾うなり、処分しなければならないはずだ。しかし日本の報道機関は、特に左派系の朝日新聞毎日新聞などは、その回収という責任をまったく果たしていない。そのせいで日本はそれらの報道機関が無責任にまき散らしたゴミの言論に国民全体が埋め尽くされて窒息しそうな状況に陥っている。これでは日本国民はゴミ屋敷の住人と同じはないか。主張や意見を公共性の高い報道機関が述べるのであれば、ゴミを路上にぶちまけるような無責任さは許されないもののはずである。そしてその弊害が、韓国の日本に対するほとんど無茶苦茶と言えるような嘘八百や、一方的で理性を欠いた批判などの反日暴走を応援しているという以上に、積極的に作り出しているとさえ言えるであろう。しかし、あろうことか日本ではそのような報道が公共性の高い、いわゆる国民の利益になる社会の木鐸として保護されているのである。報道機関が自分たちは木鐸だと考えているのであるから、国民がこれまで意義を唱えてこなかったせいでもあるが、基本的にはやりたい放題の状態である。たとえば例を一つ上げれば、慰安婦問題でも朝日新聞は虚偽証言に基づいた国家権力による強制連行があったなどといい加減な主張をしておきながら、そのおかげで世界中各地に設置される慰安婦像が増えているにも関わらず、毛ほどの責任を感じているようには見えない。少しでも責任を感じているのであれば、報道を通じて収束させるように韓国に自制を促すなり、世論を醸成させようとするはずである。日本の新聞は日本人だけが見ているのではなくて、韓国も注視しているのであるから、当然、反発や批判はあるにせよ出来ないことではないはずである。ところが言論機関として自社の記事や報道が、政治や世論、国際社会にどの程度の影響力を及ぼしているのかと言う視点の検証や総括を持ち得ない朝日新聞は、ゴミを撒き散らすように、報道と言うよりも政治運動に近いような主張を今も継続させている。これでは朝日や毎日の報道姿勢は、今、大問題になっている車の煽り運転と同じである。一時に比べれば煽りの車間距離、つまりは韓国寄りの論調は、多少遠慮気味になってきていることが、文面の言葉遣いから読み取れるが、基本的には何も変わっていないし、放置されたゴミのように何も思ってはいない。その証拠に、あいちトリエンナーレに出展された慰安婦像に関しては未だに対話の必要性であるとか表現の自由を守ることの重要性を訴える記事を掲載している。慰安婦像は朝日新聞がこれまで数十年間に亘って韓国の政治と日本の世論を操作してきたことの「作品」でもあるという事実をまったく無視しているものである。そしてそのようなゴミ芥が積もり積もって、ついにはGSOMIAの破棄に見られるようにアジア地域における安全保障上の問題にまで至っているものである。さすがにその韓国の決定については、朝日新聞も少しは批判をしていたが今更、真っ当なことを言っても手遅れである。そもそも反日政治のためには全てが正当化されるという韓国の精神構造を、日本を代表するように肯定、支持してきたのは朝日や毎日ではないのか。韓国がどのような愚策を決定して、世界に悪影響を及ぼしたところで、常に悪くて謝罪しなければならない立場は日本なのであろう。そういう韓国政治と世論を日本のマスコミが共同作業として作り上げているのであるから、近視眼的、打算的な計算で、都合よくごまかしたり、沈黙でスルーするなと言いたい。ともかくも我々まっとうな感覚の日本人は、韓国の政治を批判し続けていかなければならない。ここで重要なことは、間違っても韓国人を批判してはならないということだ。韓国人は韓国の政治に従わざるを得ないような状態に置かれているだけである。韓国の政治が酷過ぎるのである。韓国人の性質や国民性を批判したところで、差別やレイシズムなどと朝日新聞に正義の味方であるかの主導権と根拠を付与するだけのことである。朝日や毎日は、巧妙にその機会を捉えて世論を誘導し、劣勢を挽回することしか考えていないからその手に乗ってはダメである。正に差別の問題は朝日新聞などの商売道具とでも言うべき手法なのだ。辛辣すぎる意見だと眉をひそめる人もいるであろうが、そうではないと言いたい。そうではないのだ。主婦の感覚ではないが、1年365日、世論というものを毎日、料理の材料のように相手にしていると、善悪の問題ではなくて自然とそうなっていくものである。なぜならその料理をまずいとか、毒だと言うものがほとんど誰もいないからである。日本人は何でも有り難がって為政者や一部の支配者に都合の良い正義や物の見方、考え方を飲み込み過ぎなのである。そういう風にして我々日本人は日々、少量の毒素を体内に吸収させられて、日本全体が毒されてしまっているのだと言えよう。韓国政治を批判する際には、日本の左派言論をセットにして批判する必要性があることをよく肝に銘ずるべきである。