龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

武士の家計簿 1

映画『武士の家計簿』を見た。いやぁ、素晴らしい映画だった。磯田道史氏の原作を読まずに見たのだが、映画館の売店で買って(『武士の家計簿』、新潮新書)今、読み始めたところである。まだ少し読んだ程度であるが、原作の方もこれは無茶苦茶に面白そうである。
金沢城加賀藩、前田家に御算用者(ごさんようもの)=プロの会計者として何世代にも亘って仕え続けた猪山(いのやま)家の史実を、古文書から発見した江戸時代の37年間にも及ぶ精細な家計簿から掘り起こしスポットライトを当てた、家族の生き様の記録である。この映画は、暗闇に算盤を弾く音が響くシーンから始まる。このオープニングが物語全体の余韻を先取りしているようで素朴ではあるが何とも言えず、味があるのだ。武士の映画と言えば、大抵の人は切った張ったの立ち回りを思い浮かべるであろう。しかしこの映画の心憎いところは、立ち回りや拷問などの残酷シーンがまったくないことである。それだけではない。女優が脱いで肌を晒すこともなければ、男女の抱擁シーンすら見られない。暴力とエロスが皆無で、すなわち観客への余計な刺激効果をまったく排除して、これほどまでに面白い映画を作り上げた森田芳光監督は、私は凄いし本当に偉いと思う。数年前に山田洋次監督の『たそがれ清兵衛』を劇場で見た時には、これ以上の日本映画はちょっと有り得ないのではないかと度肝を抜かれるような驚きがあったが、『武士の家計簿』の深くて静かな余韻は十二分に『たそがれ清兵衛』に比肩しえる質の作品だと、私は思う。
役者たちの演技も良かった。松坂慶子の貫禄と存在感が作品全体に気品を与えていた。中村雅俊は一家の大黒柱(猪山信之役)でありながら、一歩引いたような控え目な雰囲気と柔らかな間合いを感じさせるセリフの言い回しがとても好感が持てた。猪山信之の息子である直之を演じた、この映画の主演男優である堺雅人は、本当に素晴らしいと心底思えた。直之の人柄と信念を自然体の演技で表現するには相当の力量が要求されると思うが、堺雅人は無理なく誠実に演じ切っていた。見事だと思う。直之の妻役である仲間由紀恵は、何て言うべきか、この映画においてはちょっと美しさと華やかさが目立ち過ぎていたようにも感じられた。直之は、友禅流しをしているお駒(仲間由紀恵)と初めて出会うのだが、そのシーンは川に流れる加賀友禅の着物と仲間由紀恵の美しさが相俟って思わず目が眩みそうになるほどだ。私がこの映画で一番、好きなシーンだ。しかし映画全般の抑制された語り口調から見ると、仲間由紀恵の美は枯山水の日本庭園に咲き誇る大輪の百合のようでもあり、全体の雰囲気をほんの微かに損ねているようでもあった。しかし、それほどには気にならない。恐らくは、仲間由紀恵の天性の茶目っ気とユーモアの才能に救われているのであろう。仲間由紀恵のユーモア精神には彼女の頭の良さがよく表れている。何かいたずらをして、にこっと肩を竦めて笑うかの彼女の美しさは現代的過ぎて、侍ものの時代映画には少し浮いてはいるが許せてしまう。特に彼女は、表情の動きや、すっとした立ち姿にとても可憐な華があるので何となく批判しにくい。
私はこの映画を見て思ったのだが、日本映画はこの10年ぐらいでとても良くなっているのではないか。それほどたくさんの映画を見ているわけではないのであまり偉そうなことは言えないが、日本の映画界は活況ということはないが、心に残る質の高い作品は確実に増えているように感じられる。日本は、長引く不景気の影響で人々の生活は劣化し、気持ちは荒び、先行きが見えない閉塞感に喘いでいる。正に猪山家の生活のように質素倹約が求められ、人生に華美を求めることなどほとんどの人が出来なくなっている。そのような時代背景は、意外と映画制作にとってはプラスの要因として働いているのかも知れない。なぜなら1本の映画を作り上げることは一大プロジェクトであり、巨額の資金やたくさんの才能の結集が要求される。このような不景気では、企業もおいそれと金を出せなくなっているであろう。バブル期のように金があり余ってしようがないから、メセナの一環として映画にでも出資してみようかという安易な空気と比べれば、今日の映画界は、対極位置のシビアな状態に置かれているのではないかと想像する。それはすなわち、どうでもいいような、つまらない作品にまで金をつぎ込む余裕は日本社会にないということだ。自然と厳選された才能や素材が選び抜かれ、本気で情熱を傾けて作り上げられた作品のみが上映されることとなる。そして映画のテーマにも、日本古来の文化や日本人本来の美徳が見直されるような作品が、意図せずとも増えてくるであろう。映画とはそういうものだと思うのである。『武士の家計簿』の森田芳光監督は、失礼ながら、こんなに素晴らしい映画を撮れる人だとは今まで思っていなかった。時代の新しい声と、一筋の希望を私は『武士の家計簿』に見たような気がする。私は、常々、映画には2種類しかないと考えている。良い映画とそれ以外である。おそらく“それ以外”の部類が、映画環境を取り巻く経済環境の厳しさゆえに減ってきているのだと思う。だから私のように、たまにぶらりと映画を見に行くような人間が相対的に良い映画が増えているように錯覚するのであって、本当は今も昔も良い映画の数は変化していないのかも知れない。しかしもし私が考える通り、“それ以外”が減少している事実があるとすれば、“良い映画”はより一層、良くならざるを得ない。なぜなら残り僅かの映画文化が全滅の危機に晒されているからである。自ずと役者の演技にも、渾身の気迫が入る。映画は最後まで見終わらなくとも最初の2~3分で大体の良し悪しはわかってしまう。スクリーン画面から放射される作り手サイドのその作品に対する思い入れは、オープニングシーンとその後の3分ほどで、全て見透かされてしまうものである。映画は、時代そのものを映し出す、ごまかしが効かない文化装置のようなものだと私は思う。時代と社会に対して嘘が付けないからこそ、映画という虚構が暗澹たる社会現実に一筋の光明と希望をもたらす力を持ち得るのではないのか。それが映画という芸術の素晴らしさの原点だと私は思うのだ。