龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

エクスペリメント 2

日本の俳優の演技力は世界レベルで見れば、力不足のように思えるが、時々目を見張るような才能を感じさせられることもある。少し前に映画『悪人』を見た。吉田修一氏の原作『悪人』を読み終えてから見に行ったのだが、妻夫木聡が登場してきたシーンで思わず、ぎょっとなってしまった。そこに役者としての妻夫木聡の面影はまったく存在しなかった。誰か別の俳優かと思った。まさに原作の土木作業員である祐一そのものであった。深津絵里の演技にも気持ちは入っていたが、妻夫木聡には憑依的な気迫が感じられた。他者を演ずるときに、その誰かの性格や身に纏っている雰囲気を醸し出そうと役者は努力することになるが、表情や声、ボディランゲージのみで表現できる部分には限度がある。その他者がどういう人間なのか、どのように考え、感じるのかを内面からより深く理解できなければ本当に演ずることはできない。そのような内面の理解なしに、表情やボディランゲージだけで演じようとすれば、鼻に付くような浮ついた演技になってしまう。これが安っぽいTVドラマでよく見られる役者の演技である。妻夫木聡は才能のある、いい俳優だと思う。もちろん深津絵里も悪くはない。『悪人』の深津絵里の演技には、何かしら素朴な暖かさが感じられて、私は思わず好きになってしまった。
私自身の精神分析と演技論はともかくとして、『エクスペリメント』に戻るが、この映画には日本人が看過することのできない“群集心理”の怖さがある。映画ではウィテカー演ずる看守の暴走を、押し止めようとする別の看守が描かれていた。もし日本でこのような実験が行われたなら、アメリカで行われた以上に、軒並み、より陰湿で強圧的な看守ばかりになってしまうのではないかと、想像するだけで身震いしそうだ。一人一人はとても優しくて大人しいのに、閉塞された集団の中である権威付けられた肩書きを与えられると人格が豹変するような傾向は日本人は高いのではないのか。そのようなことを考えながら『エクスペリメント』のパンフレットを何気なくめくっていると、精神科医和田秀樹氏が書かれている解説文の中で、非常に興味深いデータが引用されているのを見つけた。(以下は和田秀樹氏の解説文を参考にしつつも私個人の勝手な解釈である。)
「自力では生きていけない人達を国や政府が助けるべきだ」という問いにNOと答えた人の割合である。世界平均は10%に満たない。アメリカは28%だそうである。アメリカは極端な競争至上主義で社会主義を蛇蝎の如く忌み嫌う国だから、世界平均よりも3倍近くも高いのは当然である。それでは日本は何パーセントだろうか。実は38%で、日本が世界一だということだ。
このデータだけから見れば日本は世界で一番、弱者に対して冷淡な国だということになる。しかし日本人は過去の大地震による避難所生活を見ても分かる通り、助け合いの精神はとても発達している国民性のはずである。ならばこのデータをどのように解釈すべきなのか。思うに、日本人はカテゴライズされたキャッチフレーズの言葉に過度に影響されやすい側面がある。“負け組”などがその代表例である。また、“自己責任”のように言葉が独り歩きして国民の規範そのものに成り変わってしまうところもある。負け組、や自己責任などの言葉が、日本の資本主義システムが暗黙に要請する大衆感性や、その時の新聞の論調などと融合して、このような冷淡なデータ結果が出てくることになるのではないのか。だから38%という数字は、日本人の思考や精神のコアを表すものではなく、なんとなくその時代の大勢を映し出している空気のようなものだと思う。言い換えれば、何かの要因で簡単に反転してしまう、いい加減さと言うか、洗脳されやすさの指標のようなものでもあろう。この反転傾向が刑務所という閉ざされた空間の中で、権力を軸に作動すると偽者の看守を本物の看守だと錯覚させ、囚人という弱者を抑圧する群集心理を生み出すのである。しかし、和田秀樹氏の喩えをお借りするならば、日本という国も一つの“監獄”なのである。反転が日本の政治にまで反映されればどのような世の中になるであろうか。
民主党政権は、それまでの大企業中心の自民党政治に対抗するために、内需の活性化と国民所得の増大、国民目線の政治をスローガンにして圧倒的な支持を受けて誕生したものである。ところが鳩山前首相が、マスコミに徹底的に苛められて引き摺り下ろされるように辞任すると、その後を継いだ菅直人はいきなりそれまでの方針を反転させてしまった。弱者に対する視点の違いから比較すればどうであろうか。マスコミは、鳩山前首相や自民党の麻生元首相を大資産家の出自ゆえに社会的強者の典型としてカテゴライズしようとし続けた。庶民の生活感覚がわからない首相として絶え間なく批判を浴びせた。確かに鳩山と麻生は社会的強者の典型で、庶民の生活感覚もわからなかったのかも知れないが、私が思うに弱者に対する眼差しそのものは決して冷たくはなかったと思う。二世、三世議員としての負い目もあったからであろうが、金持ち特有の傲慢さの臭いはまったく感じられなかった。むしろ大資産家の出自ゆえに、弱者から決して目を逸らしてはいけないという楔としての自覚のようなものを麻生も鳩山も持っていたと思う。鳩山前首相は、政治家としての力量や手腕が優れているとは言い難いし、また理想主義だけで現実の問題は何一つ解決し得ないという限界を国民の前に露呈させてしまったわけだから、首相としての資質はなかったのかも知れない。しかし真に国民のための政治をしようという心根の部分では、決してぶれてはいなかったと私は思う。だから人間的には信用できる。ところが菅という人間は、何を考えているのかさっぱりよくわからない。恐らく、日本の国益とか将来像というレベルで物事を熟慮できる精神的余裕がまったくないのだと思う。目の前に控えていることで頭が一杯になっているような状態だから、理想主義にも現実主義にも徹することが出来ず、ただオロオロと自らの延命の手立てを考えているだけのように見受けられる。あまり嫌味を言いたくないが、大した政治主導だと思う。人間、心に余裕がなくなると、どうしても弱者に冷淡になる。近視眼的に権力者の目で見れば、弱者とはすなわち国民である。そして無意識に強者に取り入ろうとする。筋道を曲げて自分を正当化することのみに余念が無くなる。菅直人の目には呆然たる冷たさが宿っている。そもそも民主党政権そのものが、エクスペリメント(実験)そのものではなかったのか。日本という小さな牢獄で、菅直人という名の既得権益層の守護神にして無能の神は、偽者の看守から本物の看守に成り変ろうとしている。これ以上何も言うことはないであろう、そろそろ、実験中止の赤ランプをけたたましく鳴り響かせる時だ。