龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

エクスペリメント 1

『エクスペリメント』という映画を見た。内容は、文字通りエクスペリメント(実験)である。何の実験かと言えば、求人広告(日当1000ドルの高額報酬)で集めた一般人から厳密な面接で選んだ24人の男たちを看守と囚人に分けて、刑務所と同じ環境で14日間を過ごさせる、というものである。暴力を振るってはいけない、などいくつかの最小限のルール設定はなされるが、それ以外は自由に看守と囚人の役柄を演じさせ、1日24時間、至る所に設置されたカメラで監視されることになる。ごく普通の人間が、特殊な環境下で特定の地位や役割を与えられるとどのように変化していくかを調べる心理実験である。看守役は看守として振舞うことを要求される。模擬刑務所内には赤ランプが取り付けられていて、暴力行為が行われた場合には、そのランプが点滅し実験は中止となり、24人全員に報酬は支払われないこととなる。
この映画はフィクションであるが、1971年にアメリカのスタンフォード大学で実際に行われた実験のようである。その時には14日間のスケジュール予定が僅か6日間で中止されたとのことだ。
まさにアメリカらしい実験である。日本ではちょっと考えられないが、アメリカはこのようなマッド・サイエンティフィックな実験を平気で行うところがある。アメリカという国が掲げる“自由”の理念は、“狂気”と隣り合わせになっているようだ。映画そのものはリアリティーがあって、中々面白かった。囚人役にはエイドリアン・ブロディ、看守役にはフォレスト・ウィテカーという、アカデミー賞主演男優賞の2大俳優が演技を戦わせる。特に黒人俳優フォレスト・ウィテカーの演技は、緊張感が漲る迫力があって見ものである。初めの方の面接に参加している場面では、いかにも真面目で大人しそうな人物であるのに、看守の役柄を与えられて徐々に豹変してゆき、凶暴性を宿らせるまでの表情の変化はさすがであった。このウィテカー演ずる看守が看守たちのリーダーになる。アルバイトで雇われている偽の看守に過ぎないのに、ちょっとした諍いから囚人役と対立し、刑務所内の秩序を保つためなどと馬鹿なことを言い始めて、権力に酔い痴れ、横暴な圧制で統率しようとしてゆくところが、この実験の恐ろしさであり、また映画『エクスペリメント』の面白さである。
私がこの映画を見終わって考えたことは、さて、自分があのような条件と環境で看守の地位を与えられていれば、どうなっていたであろうか、ということであった。果たして“看守”に成り切れていたであろうか。もちろん実際に被験者になってみなければわからないことではあるが、日当1000ドルの報酬であるから当然、看守らしく振舞おうと努力はするであろうが、少なくとも看守役として権力を行使したり誇示することで満足したり興奮することは自分には有り得ないであろうと思う。なぜなら、ウィテカーが演じていたような男が、私が何よりも正に尤も軽蔑しそして心の底から馬鹿にしたくなるような人間そのものであるからだ。私なら14日間どころか、たとえ2年間看守の役割を何らかの強制命令で演じ続けさせられることがあっても、恐らくちっとも看守らしく見えるようには変化を遂げていないと思うのである。但し、それは私は自分の長所や美質として自画自賛的に自慢しているわけではない。社会性とは、一人の人間が与えられた役割を忠実に遂行し、そこに自らの自己同一性を見出してゆく心理プロセスと不可分の関係にあると思う。看守の役柄を演ずるアルバイトが本物の看守に成り切ってしまう人間を、私はどうしようもなく馬鹿にしてしまうが、社会性という観点から見れば、そのような人間の方が良く言えば順応性が高いというか、逆説的に言えば善人なのである。看守を演ずることでアルバイトの報酬をもらうことと、一生の職業として本物の看守になることには本質的には違いはないのかも知れない。どちらも金銭的な対価が重要なイニシアティブとなっているし、外面的にはともかく一個人の内面心理の範疇のみで考えれば、看守を演ずることと本物の看守であることにはどれほどの違いがあるというのであろうか。アルバイトの短期間の仕事で偽者であっても看守に成り切ってしまえる人間は、立派な本物の看守になれる資格があるとも言える。こういう事を書けば、“本物の看守”に叱られるかも知れないが、一面の理屈においてはそういうことになる。一方で私のような、捻くれた人間は、看守を演じることが出来ないゆえに、本物の看守にはなれないということである。仮に看守になったとしても、どこまでも居心地の悪さが付き纏うであろう。 “看守”をパン職人や左官屋や、坊主に変えても同じである。要するに私は、何者かに“それらしく”見える人間ではないということだ。だから、すぐにそれらしく何者かに成り切れる人間の単純性を私は馬鹿にすると同時に畏怖してしまう一面もある。
私は何者にも成り得ないゆえに、私である。
こういうことを書くと、私は自分という人間がこの世の生き物ではないようにも思えて、何かしら深刻な気分に陥ってしまう。何者かに、それらしく見えるということは生きてゆく上でとても重要なことなのだと思う。だからこそ俳優の仕事は“それらしく見える”ということの意味を、哲学的な深さで理解できていなければ一流にはなれないのだろう。ウィテカーの演技を見ているとそういうことが、よく分かる。