龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

オウムに見えていたものと日本の社会

オウム真理教という存在が私の心を強くとらえる理由は、オウムという組織の出現や行動が日本の闇と深く結びついているように感じられてならないところにある。オウムは一般に認識されているように反社会的な宗教団体であった。それもきわめて危険な集団であった。そのような宗教団体がどうして日本の闇と結びついているのかというと、説明することは簡単ではないが、オウムが有していたいわゆる陰謀論的世界観がオウム興亡の原因として大きいのではないかと考えられる。陰謀史観と戒律が同居しているような宗教団体は日本ではオウムだけであった。日本には無数の宗教団体が存在するが、どの宗教も陰謀論的な世界観を持ってはいない。これがどういうことかと言えば、オウムだけが良い意味でも悪い意味でも世界の、そして当然日本の真実と実相を見極めていたということである。その上でオウムの信者たちは自分たちが修行することで世界と人類を救済できると信じていた。そのオウムの独自的な世界観、宗教観が、優秀な若者たちの人生すべてを捧げさせるほどに魅惑し、多くの信者を獲得していくことになったのだと考えられる。それでは結局のところオウムの信者たちは麻原に洗脳されて、騙されていただけなのであろうか。私にはそうは思えない。もちろん外部から広義に見ればそういうことになるのであろうが、オウムが主張していた陰謀論というものは決して空想や妄想の産物なのではなくて、かなりの部分で真実が含まれていたのだと思われる。そこに社会全体が無視して、決して直視しない真実があるからこそ、信者たちはオウムの危険な教えに取り込まれていくことになったのであろう。個人的にはオウムにはもっと穏健な方法で世界と日本の真実に対峙した宗教活動を展開させて欲しかった。殺人や非合法な活動で国家権力を敵に回すようなことさえしなければ世界はともかくも、日本の国民全体をある意味で覚醒に導いていくだけのポテンシャルは持っていたと思うのである。ではなぜそれができなかったのであろうか。どうして麻原と幹部たちは、あれほどまでに性急に、過激で破壊的な活動に邁進して自滅することになったのであろうか。私が考えるにそれは全て教祖であった麻原の性格と人間性によるものである。そして麻原の性格と人間性は、目が見えないという肉体的なハンディによるところが大きかったのではなかろうかと私は考えている。麻原は全盲全盲に近い視力であったと言われている。よって仮に少しは見えていたとしてもおぼろげにしか外部を見れていないということだ。これがどういう意味を持つかと言えば、麻原に限ってのことであるが、常に瞑想状態にあるような意識で自分を離れた外部世界を把握していたのではないかと思われる。これは瞑想というものが持つ一つの重大な危険性であると考えられるが、あまりに深くそして日常的に、瞑想にのめり込んでいると確かにそれによって「見えて」くるものはあるのだが、現実感覚というものがどんどんと観念化していくものである。人間の生も死も、生きていくことの苦しみも全ては吸収するように精神に取り込まれた観念の中で処理する対象でしかなくなってしまうということだ。普通であれば、たとえば私も瞑想することがあるが、ある段階でこれ以上進んでしまうと健全でバランスのとれた現実感覚を見失ってしまうからとブレーキがかかるものである。ところがオウムのように宗教団体としての閉鎖された空間の中で際限なくそういうことを続けているとドラッグなどの影響がなくとも現実が観念に飲み込まれてしまって、観念の中に現実を再構築していくような精神構造が強化されるのだと考えられる。そして観念というものは、教祖である麻原の観念でしかないものである。信者たちは瞑想修行を続けることで悟りを開けると信じていたのであろうが、そうではなくて目の見えない麻原のグロテスクな観念世界と共有することを延々とやっていただけなのだ。ポアの思想と言うものも結局は麻原の観念から生み出されたものである。何人の人間を殺害することになっても瞑想という観念世界がベースになっているとある一定以上の重みを持ち得ないのである。むしろ罪の意識よりも、殺すことが救済であるなどと悪と善が転倒してしまうことにもなる。観念を土台として現実を再構築するということは、究極的には悪を善に転化させるということであるからだ。死刑になったオウムの幹部たちは、刺殺された村井もそうだけれど盲目の麻原の目の代わりになって科学技術を駆使しながら現実を再構築しようとしていたのだと思われる。オウムには確かに見えているものがあった。他の宗教団体や社会全体が目を背けていたものを直視していた。瞑想も個々人の洞察力や意識を引き上げていくための修行に限定して用いられるのであれば決して悪には成り得ない。しかしグルと一体化するという目的のために瞑想するのであれば、単に個人崇拝のカルト宗教に過ぎないのであって社会や世界を変革する本物の力を得るまでには至らなかったということであろう。しかし規模や歴史が全然異なるから単純には比較できないことではあるが、突き詰めれば日本の国家と言うものも悪を善に転化させようとしている点においては同質なのだと思われる。いやもっと卑近な意味でも日本の政治は、日本の国民を平気で見殺しにしているのだ。