龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

あな、うれし。

モラルや規範意識の問題の在り処は、高所から見下ろす俯瞰視点だけでは、きちんと捉え切れない所が多い。前回、書いた給食費未納についての文部科学省、役人のコメントは縦割り行政の頂上付近から見た下界に対する印象がよく表れていると思う。役人には役人特有のメンタリティーというものがある。
公務員は基本的には何か問題を起こさなければ、身分と収入が保証されているわけだから、“変化”という動態と流動の側面から社会実態を捕捉することが苦手である。苦手なだけではなく、寧ろ意図的に無視しようとする傾向が強い。もちろんその時の画一的で統一された見解から導き出された規則や政策に、全面的かつ無条件に従うことが、公務員にとっての倫理規範そのものであるから、止むを得ない部分はある。しかし前年度のデータを机上で計数的に分析してみたところで、そこから得られる数値は定時、定点撮影の静止画像のようなもので、国民のモラルや規範意識の問題にまで踏み込んで言及できるものかどうかは甚だ疑問である。数値には数字以上の意味はないのである。たとえば、年間の自殺者数が、3万1千人から3万人に減少したとして、千人分の命だけ世の中が明るくなったと言えるだろうか。そこにはメカニカルで無味乾燥であるが、何らかの社会的必然としてのデータの幽霊が佇立しているだけだ。本来、政治の役割とは、役人が弾き出した数字と数字の間の空虚で平面的な隙間を、国民が生きていくという立体的な座標軸に変換してそこに共同幻想的な意味と物語を紡ぎ上げていく作業だと私は思う。その意味と物語に国民が共感できるかどうかが全てだ。政治家の価値とは美しい嘘がつけるかどうかだ。一方、役人の思考や意識は、蜜蜂や蟻の集団的な協業作業のようなものである。その特徴は、個々の働きが画一的で均質化されていて、統制された全体があたかも一個体のように高度に機能する集団であるということだ。そのような集団内部にあっては、個が独創的であるということは全体の秩序を損なうがゆえに罪深いことである。一匹の蜜蜂や蟻はモラルとは何かなどということは決して考えないし、モラルという観念自体を有していない。単にDNAに刻まれた命令に従って行動しているだけだ。ところが全体として見ると、そこに何かしらモラルらしきものが立ち上がってくる。この“モラルらしきもの”は実は危険である。役人特有のメンタリティーとは全て、モラルらしきものに包まれている。軍隊もまた独自のモラルと正義の内にある。戦時中の軍部の独走に対する反省からシビリアンコントロールの重要性を指摘し続けることは正しいのかも知れない。しかし問題の本質は“軍人以外”がどのようなモラルを共有しているかということではないのか。社会の片方に脆弱なモラルしか存在しないのであれば、あるいは脆弱なモラルすらないのであれば、より切迫したモラルが社会全体を補完(侵食)することは即物的な必然である。
要するに戦争中であれ、平和な今日であれ、軍人や役人がモラルに言及せざるを得ない状況そのものが、世の中が病んでいることの証明だと私は思う。
もちろん戦争と給食費の未納を同列に論じることなど出来ないが、政治力の不在の観点から見れば同質である。給食費を払えない(払わない)保護者が前回の調査に比べて0.2ポイント増えたとなれば、文部科学省の役人であれば子供手当てや就学援助制度で支払えと言うことは当然である。しかしそれ以上のことは、つまり保護者の責任感や規範ということについてまでは、役人が口にすべきことではないのではないのか。ましてやどういう根拠かわからないが、保護者の責任感や規範意識の欠如を指標として数値化するのは私はおかしいと思う。そういうことは本来は、政治の領分であるはずだ。なぜ政治の領分かといえば、抽象的で分かり難い表現かも知れないが、一市民の責任感や規範意識に対する最終的な評価は、政治が作り上げてゆくべき国家全体の共同幻想としての総合的な価値観の中で相対的にしか定まらないと思われるからである。極論を言えば、私がロビンソン・クルーソーのように無人島で一人で暮らしていれば責任感や規範の観念や価値観は何の意味もない。同様に、日本の各省庁が一斉に文部科学省給食費未払いに相当するような国民の責任感・規範意識の欠如を証明するかの調査結果を公表したところで、さして意味はないということだ。国家に流れゆく物語の中にしかモラルという概念は存在し得ない。
私がこの給食費未納のデータに拘る理由は、菅総理が先の民主党代表選挙で民主党議員全員での“政治主導”などとつまらないまやかし事を訴えて当選したにも関わらず、政治主導の意味が何一つ理解できていないのではないかと思えるからである。政治主導の意味がわからない人間に、政治主導の改革が出来るわけがない。政治主導とは、畢竟するところ語弊があるかも知れないが美しい嘘をつき続ける姿勢である。美しい嘘を100万回ついて、周り全てを巻き込んで錬金術的に嘘を真実に変える魔術的な能力だと思う。美しい嘘をつくことも本音を言うことも出来ない人間に、そもそも一国のトップとしての資質はないのだ。まだしも小泉純一郎には歴史的な評価はともかく政治の本質を理解する能力は備わっていたように思われる。未だに反省している素振りを見せないところが尚偉い。それに比べて菅直人路傍の石ころのような総理大臣である。かつて、これほどまでに存在感の薄い総理大臣がいたであろうか。総理は批判されるのが仕事のようなものである。しかし、今、日本の大衆は私も含めて菅を批判する元気すら出てこない。それは批判をする値打ちすら菅にはないと国民が諦めてしまっているからだ。頭も悪すぎるし、政治家としてのセンスもなさ過ぎる。処置なしだ。これでは中国の首脳に通路の立ち話し程度で済まされて当然だ。「やあー、やあー」と、他に言うこと、何もなし。日本が本当に政治の力を希求している時に、戦後、最低最悪の総理大臣が腎臓結石のごとくしぶとく無表情に鎮座している。何でこうなるの。誰がこうしたの。
私は今、酒を飲み酔いながら書いているので脈絡のないよくわからない文章になってしまった。しかし幸いなことに私はいつも一人なので、誰かに殴られることも誰かを殴ることも、つまり失う名誉は何もないということだ。
あな、うれし。