龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

小沢的なる影

小沢一郎という一政治家について研究していたわけではないので、何一つ偉そうなことを言えないのであるが、個人的には以前から気になっていたことがあった。それは小沢が党内で自分に対して批判的な人間であっても特に排除しようとしないことである。鳩山内閣の時には二重権力などとマスコミに批判されていたが、実質的には幹事長として党内トップの影響力を持っていたので人事的に前原や仙谷、枝野などを閣僚から外させることも出来たと思うのであるがそうはしない。小沢の政治と金の問題で、当時副幹事長の生方が執行部批判を激しく繰り返し一旦、副幹事長職を解任された時にも世論の批判もあったわけだが、小沢は党内が一つにまとまって仲良くしなければならない、とか言って生方を続投させることに賛成していたように記憶している。
民主主義なのだから党内であっても様々な意見や対立があって当然だという考えはわかる。しかし何かおかしいような気もするのである。小沢にとっては自分を批判する人間、あるいは足を引っ張る人間であっても“数”の内ということになるのであろうか。大物政治家が考えている全容は私のような素人には及びもつかないが、それでもどこか小沢には民主的であろうとするあまりに、反対に独裁的に見られてしまうパラドックスがあるように感じられる。それは結局のところ小沢の政治家としての甘さであり欠点であったのではなかったのか。
今回の民主党代表選にあっても、小沢が総理大臣になった時には菅を閣僚に入れると明言していたのに対して、菅は自分が総理大臣になった時の小沢の処遇は白紙だと言っていた。その時点で小沢は何かが負けていたのだと思う。
今思えば“反小沢”や“脱小沢”を標榜して寄り集まる集団は、傍目には体裁が悪いが、彼らなりの正統的な健全性があるようにも感じられる。国会議員投票直前の演説にあっても菅が411人全体での政治主導を謳っていたが、そのセリフには小沢的政治の本質と欠点をよく弁えた鋭さがあった。これまで散々無能呼ばわりしてきてこういうことを言うのも何だが、菅には無能なりのクレバーさが光っている。問題はそのクレバーさが我々国民を益する性質のものには思えないということである。411人全体で政治主導という意味は、結局、自分ひとりでは何もしないと言っているのと同じである。菅の言葉には詭弁性が色濃い。しかしそれは日本社会全体の特徴を反映しているからだと思われる。要するに社会を変革しようと思えば小沢的な一人の政治家に頼ってもだめだということに繋がるから、菅の詭弁は真理と薄皮を透かした表裏一体の関係性にある。自らの無能を正当化しているとも言える。
マスコミの情報操作には問題が大きいと思えるが、それはそれである。小沢が菅に敗れたのは、どこまでも小沢自身の問題ではないのか。小沢は自らの小沢的なる影に負けたのだ。先ずそれを認めるところからしか社会変革の道は開けないように私には思えるのだが。