龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

映画『ノーカントリー』

劇場では見逃してしまったのだが、公開当時(2008年)評判になっていた映画をブレーレイで見た。アカデミー賞作品賞を受賞したジョエル&イーサン・コーエン兄弟監督作品の『ノーカントリー』である。いや、凄かった。衝撃である。これぞ、映画だ。俳優ハビエル・バルデム演じる悪党ぶりは、ただごとではない。最初に画面に登場した時に、大袈裟ではなく身体に震えがきた。この震えは人が絶対的に理解不能な者に向き合う根源的な恐ろしさである。この映画はバイオレンス映画であるが、暴力そのものを描いている訳ではない。コミュニケーションを超越したところにある暴力の怖さがテーマであるように感じられた。本物の悪党は、喋るから怖いのではない。黙っていることが何よりも怖いのだ。バルデム演ずる殺人鬼のアントン・シガーも喋りはするが、意思の疎通を試みるような喋り方ではない。これからあなたを殺すことになる、と冷酷に宣告しているだけで、そこにはまったく付け入る隙がない。映画の中のセリフにもあったが、取引できる相手ではないのである。殺される方は、皆間際に「私を殺すことに意味はない。」と理性に訴えて何とか翻意させようとするのだが、殺人鬼のシガーは超越した行動基準を有しているのでまったく聞く耳を持たない。シガーの、感情の動きが感じられない常人ではない表情が本当に怖い。このハビエル・バルデムが醸し出す恐ろしさは、日本の役者ではとても演じきれないであろう。演技ではなく“本物”ではないかと思えるくらいだ。個人的には、ロバート・デ・ニーロが『タクシー・ドライバー』で演じた“トラビス”の狂気を遥かに上回っていたように思える。トラビスは精神を病むようなニューヨークの孤独生活の中でタクシードライバーをしながら、たまたま出会った娼婦の少女をマフィア組織から救い出すことによって自ら正義へと命がけで飛躍したのである。そこには狂気があるが、社会性がある。社会性があるということは言葉で誰かと繋がれるということである。ところがバルデムが演ずるアントン・シガーは、誰かと言葉で繋がることをまったく拒否する。コミュニケーションがないということは、個と対置する一方の社会に、健全な社会性を育む正義や愛の幻想が決定的に枯渇しているとも見れよう。暴力が論理や理屈の範疇に収まっている間はまだ救いようがあるのである。ところが論理や理屈つまり言葉を超えたところに暴力が日常的に展開される事態になれば、何が正常で、何が異常かの境界自体が揺らぐことになる。そうなれば世界はもはや地獄である。映画の中だけの話しではない。今の日本においても、親が無意味に我が子を殺したり、餓死させるような事件が頻発している。そのような冷酷な親はきっと我が子を殺める時に、バルデム演ずるアントン・シガーのような顔付きをしているのであろう。為政者に都合のよい建前ばかりの社会性に絡めとられて、三文役者では到底、演じ切れない人間悪の恐ろしさが、日本の末端の市民生活の中でも独り歩きをしている。人と人を結びつける言葉が、つまりその言葉の意義を、愛や正義の概念によって説明する宗教や社会体制の信頼性が決定的に壊れた時に、そこには必ず言葉を超えた暴力が発生することになるのであろう。