龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

私が昨日見たもの

息子が泊り掛けで、サッカーの合宿に行っているので週末がフリーになった。それで私が昨日、何をしていたかというと(一般的にはどうでもいいことではあるが)、昼間、映画を見に出かけた。若松孝二監督作品の『キャタピラー』である。正直なところ、エログロ映像をこの暑い最中に見に行くのは気が進まなかったので直前まで迷っていたのだが、寺島しのぶは嫌いではないので結局、見ることにした。
館内は予想に反して満席であった。日中戦争で四肢を失った夫が帰ってきて、軍神として崇められる。その夫を寺島しのぶ演ずる妻が、嫌悪感を抱きながらも献身的に世話をするという内容であった。身体の不自由な夫が妻に性交渉を求め、妻がいやいやながらも応ずるシーンがあまりに多すぎて辟易させられたが、寺島しのぶの演技には嫌味がなかった。まあ、それだけが救いの映画であったとも言える。あのような役柄を演じて外連味や不潔感がないのは、寺島しのぶという女優自体の品格によるものだと思われた。こう言ってはなんだが、あまり美人でないところが尚良い。それにしても作品そのものは、反戦映画なのか、戦争と性をテーマにしたものなのかよくわからない内容であった。結局、若松孝二は性と暴力を映像化したかっただけなのではないであろうか。しかし、それもまた一つの芸術ではある。
映画『キャタピラー』よりも、その日の夜に見たNHK教育放送、“ETVワイド”での薬物依存についての特集番組の方が印象深かった。スタジオに薬物依存を過去に経験した当事者やその家族、また薬物依存者たちの社会復帰を助ける民間施設のスタッフ、精神科医、作家などが集まって、様々な事例を見ながら感想を述べ合っていた。私が見た限りでは、出演されていた当事者の方は最悪の状態から脱して精神的に安定しているからなのであろうが、物腰が落ち着いているし、発言もしっかりしているように見受けられた。しかし一人だけ、痛々しいような存在感が画面を通して私の感性に訴えかけてくる若者がいた。30歳ぐらいの男性で、有名進学高校に入学したもののついていけずに中退した経歴を持っていた。その挫折感から薬物に走ったのかどうかよくわからないが、現在、ダルクという社会復帰のための民間療養施設に入所して生活しており、そこで職探しをしているのだが、せっかく決まったアルバイトを2週間ぐらいで自分から辞めてしまったことが映像紹介されていた。その若者がスタジオに来て収録されていたのだが、一人だけ周りの空気と違うのである。他の参加者たちが専門家の発言に真剣に耳を傾けながら、時折笑顔も交えて相槌をうつなど、こなれた態度なのにその若者だけが首をちょっと傾げたまま、思いつめたようにどこか一点をじっと見つめていた。カメラが顔をクローズ・アップすると、頬が痩けていて、心が世界を拒んでいるような固い眼差しをしていた。明らかに今風の若者ではないというか時代に馴染めていないのである。昼間に見た映画『キャタピラー』の戦時中からタイムスリップしてきたような雰囲気がその若者にはあった。もちろんダルクという療養施設に入っているので薬物の影響下にあるということは有り得ない。私から見ればそれもその男性の一つの個性だと思うのである。自分を社会に順応させる心理的な手立てというかスキルを持てずに、その若者の奥底にある何かがむき出しになって残酷に世の中に晒されているような痛みを私は感じ取ってしまった。そういう若者は表層的な社会感覚と付き合うことが困難であろうから、必然的に薬物に走る傾向が高くなるであろう。
もちろんドラッグの世界に逃げることは本人のためにもよくないことなのであろうが、自らの存在そのもので、本人にも無自覚に何かを訴えかけているような痛みの気配を有している若者に対して、私は世間一般が決めつける通りに“弱い”といって全面的に否定するのではなく、肯定的に認めてやりたい思いに捉われる。もちろんドラッグを肯定するつもりは毛頭ないが、そういう個性の若者をドラッグに追いやるような同調的な思考は社会の側にあるのではないのか。
たとえば詩人の中原中也が現代に生きていれば、おそらくその若者と同じような気配をより強烈に発散させていたのだろうと想像するのである。弱さとは強さが反転したところにある表裏一体の概念である。中原中也が弱い人間だったのか、強い人間だったのか誰が決められようか。否応なく、存在そのものが無意識に何かを訴えるかの個性は、特に日本のような管理化された社会風潮の中では基本的に危険な存在であると言える。よってそのような個性の持ち主は、目に見えない全体的な感受性の圧力によって排他的に阻害されてゆく運命にある。
ドラッグに走る心理傾向を社会に都合よく人格的に“強い”とか“弱い”などの二分法で分類して矯正してゆくプログラムは、薬物中毒で苦しむ本人やその家族たちにはそれなりに有効なのかも知れないが、社会側の問題点をなおざりにするゆえに薬物中毒者の数を年々増やすことの歯止めにはまったくなっていないものである。要するに日本の問題は、全体の潮流に対して責任を持つ思考や感性が存在しないということである。今のマスコミ報道を見てもわかる通り、世間一般的な日常感性は洗脳に塗れ過ぎているではないか。
私は、昨日のETVワイドのその若者を見て、作家の中島らもを思い出してしまった。中島らもの小説に登場してきそうな気配があった。そう言えば中島らもの『今夜、全てのバーで』は本当に名作であった。生きてゆくことは本当に辛いことだ。でも、やがては誰もかれも滑稽に死んでゆくのだな。
愛すべき、中島らものように。