龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

政治とメディア

政治家の本分とはつまるところ、自らの信念を貫き、信念のために命を賭ける決死泰然とした志にしか有り得ないのではないであろうか。
我々国民は一人の政治家を選ぶ時に、その人物の信念によってしか判断のしようがないのである。もちろん現実的には、その信念を政策に反映させることが困難な場合は多いであろうし、時によっては、信念そのものを修正せざるを得ない状況もあるであろう。そうであれば政治家は自らの言葉でどこまでも誠実に、何が政策反映のネックになっているのか、どういう経緯で信念(約束)を変更しなければならなくなったのか、きちんと説明すべきである。私ならそうするであろう。有耶無耶にごまかそうとする態度が一番いけない。
“信念に命を賭ける”といっても、今の時代に幕末の坂本竜馬のように本当に命まで取られることは有りえない。せいぜいがマスコミに徹底して叩かれたり、検察に目をつけられる程度である。命そのものは、どこに行ってもしっかりSPに警護されているのだから我々一般人よりよほど安全である。心配しなくとも海外の諜報機関に暗殺されなければならない程の値打ちのある政治家は今の日本に一人もいない。せいぜいが、誰かにちょっと足を引っ張らせて潰しておいたほうが将来のために賢明だと思われる程度であろう。
“政治生命”などという言葉も所詮は、政治家の自己保身的な裏返しの造語に過ぎないと思われる。基本的に付和雷同するしか能のない政治家が自らのささやかな勇猛心を鼓舞せんとする時に、政治生命を賭けるなどと言って一人で勝手に奮い立つのであろうが、はっきり言って我々国民にとっては誰かの政治生命など、どうでもよいことである。今、この瞬間にも多くの善良で力ない国民が政治の無力の前にあえなく命を落としているのである。要するに大義のために本気で身体を張れないような政治リーダーは、何をどのように強弁しようと国にとっては最終的には害悪でしかないということだ。
ところが“信念に命を賭ける”というような志の政治は世間一般的には、特に女性に受けが悪い。何かしらやくざ的でもあるし、暴力や戦争に結びついてゆくような漠然としたイメージが伴うからであろう。それでは、その反対側に位置する政治スタンスとはどのようなものであろうか。それは信念を訴えながら、信念を持たずに、力のある勢力や国、声の大きな集団や世論に絶えず迎合する政治である。その特徴は全体の反応を見ながら、自らの主張を出したり、ひっこめたりする。あるいは自己保身のために政敵を攻撃したり、懐柔しようとする。自分の方に流れがあると判断すれば居丈高になり、流れが変わると途端に弱気になる。このような資質のリーダーが行う政治は当然、その政治家のキャリア形成にプラスにならないと判断された層の声は無視されたり、切り捨てられることとなる。そこにあるのは信念ではなく、処世術なのである。だから自分の名望を集めるために効果的だと思えば、時に大胆に国の責任を認めて謝罪するようなパフォーマンスも為すであろうが、そこには本当の心は存在しない。
そのようなタイプの政治家にとって信念とは、政治という池に繁茂する水草のようなものであろう。政治の世界で泳いでゆく上で、信念という名の水草は、邪魔である以上に危険である。なぜなら、時に自分の手足を取られてしまって溺れ死ぬ原因となってしまうからだ。だから処世術としてはいかにも立派な信念を持っているように見せかけながら、その実、足手まといの危険な水草信念を刈り取ってしまうことが政治の世界で生き延びる知恵となる。
ところがマスコミは、このような政治リーダーの器量の小ささを基本的には好むものである。一般的な庶民感覚に近くて、わかりやすいということが表向きの理由であるが、マスコミの報道圧力による政治への影響力を低下させないためには適度な小ささの融通が利く器量が求められているからであろうと考えられる。またマスコミの世界に集う人種自体がそのような性質の持ち主が多いからでもあろう。同類相求む、だ。定見や信念のかけらもなく、根無し水草のようにふにゃふにゃと全体のムードに流される政治リーダーの方が日本には相応しいと考える人は多いのかも知れない。そこは人それぞれの考え方である。私も、今の国際社会の中における日本の位置づけや戦後の国民意識の変遷を考えると、その方が良いのではないかと思える時もある。しかしものには限度というものがある。
菅直人の政治家としての器量は、どう贔屓目にみても総理大臣のものではないであろう。戦後の総理大臣とすれば最低ではないのか。私は菅直人オバマ大統領と並んでいる映像を見ると何かしら不吉で落ち着かない気分に襲われる。私個人の偏見は大いにあるであろうが信用できない。まだしも亡くなった小渕さんのように総理大臣としての器はともかく、自ら人柄の良さを誇れていたような人の方が一人の人間として安心できるというものだ。
ここでマスコミの政治への関与を考える時に、昨年の衆議院選挙において宮崎県の知事が自民党公認で出馬を要請された際のドタバタ騒ぎが象徴的である。宮崎県知事は自民党の総裁候補になることを出馬の条件とした。そうしたところ、自民党が怒るのなら話しはわかるが、そうではなくてマスコミが一致団結して猛然と怒ったのである。知事就任以来、封印してきた過去の淫行事件まで持ち出して批判するものもあった。しかしある意味で宮崎県知事の要求は日本の政治情勢に適っていたとも言えるのである。万人に親しみやすくて、わかりやすいオープンな政治手法であり、裏側に特定勢力とのつながりが見えない。賄賂や汚職とはおそらく無縁である。汗水たらして、真面目に一生懸命仕事をしている。そうであれば宮崎県知事が、自民党から出馬をするのであれば我こそは将来の総理大臣として相応しい考えたとしても別に不思議なことではない。しかし、あの知事はやはり馬鹿でもあった。タレント出身でありながら、マスコミの機微を全然理解できていなかったからである。正直であるほどに馬鹿だったのであろう。
おそらくマスコミは、自分たちの力で応援してその知事を育ててやったと思っているのである。よって知事は育ての親であるマスコミに感謝の気持ちを保ちながら謙虚に言動を謹んでいるべきであった。それなのに傲慢にも総理大臣のポストを要求するとは何事か、何様のつもりだ、徹底的に叩いてやれということになったのだと推察される。しかし私に言わせれば、その知事の馬鹿さ加減も然ることながら、何様のつもりは一体どちら様だと言いたくなる。そのような手前勝手なマスコミの政治への介入姿勢が、大義を装いつつ実質的には大義とは無関係の世論誘導で政治を歪める結果になっているのではないのか。
マスコミがあの宮崎県知事を必要以上に持ち上げ続け、自民党の総裁ポストを要求した途端に虚仮にするような極端な報道姿勢のあり方が、小沢一郎への執拗な攻撃報道や菅直人の変節ぶりと底流で密接につながっていることを我々国民は見抜く必要がある。現実にはその程度のことは当たり前のようにわかっている人は、かなり多いと思われる。しかしそのような層の意見がマスコミの情報操作によって社会意識の表層部に表れ出てこないことがマスコミ主導による日本的ファシズムの特徴である。
我々国民がメディアと政治の関係についてよく考えるべき時期にあるのは明らかである。そして、それを妨害しているのもまたメディアなのである。