龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

すっぽんぽんの言葉

愛国心”について、思うところがある。日本は戦前、戦時中の、ファシズム体制下の愛国心を経験して、今日に至っているので、ともすれば愛国心という言葉そのものが、攻撃の対象にされることが多い。その延長線上に、国歌や国旗の否定というイデオロギーが、教職員などに支持されることが多いのだと思う。もちろん公務員の教職員であっても、憲法で個人の思想・信条の自由は保障されるわけだから、愛国心の象徴としての国歌や国旗に慎んで敬意を表さない自由はあると思う。但し、それを職務中に、学校の卒業式などで態度として表明することが、適切かどうかということになれば、私はやはり問題があると思う。一教師ご本人は、崇高な平和思想のために身を挺して、闘おうと考えておられるのかも知れないが、彼らのバックには日教組という強力な後ろ盾がある。組織の力を背景にしている限り、その組織の本体が国家であっても、日教組であっても、宗教団体であっても、暴力団であっても、詰まる所は同質だと私には思える。
彼(彼女)らは、本質的に自分だけのオリジナルな言葉を持っていないにも関わらず、要するに詩人でもないのに、数の力だけで世界に大きな影響力を及ぼそうと試みることが、すなわち“暴力的”であるということに永遠に気付くことが出来ないと言う点において、救いようのない俗人集団だと言える。数と言う絶対的な力に対抗し得る力は、つまりファシズムに立ち向かうには、最終的には個の私的で、詩的な言語以外には存在しないと言う見解が私の信念だ。
それでは、民主政治にならないと言われるかも知れないが、それなら敢えて聞くが、その民主政治の正体とは一体、何だ。組織と組織を戦わせて、数と数の論理だけで、その狭間で、本当に政治力のない小さな子供たちや、社会的な弱者が犠牲になることが、正義の避けがたい帰結だとでも言うのか。
繰り返し言うが、組織の全面的な力を背景としている限り、独裁国家も、宗教団体も、日教組も同質である。そこにある“善”は、組織内部の人間たちが、自分たちのためだけに信じようとしている、まがいものの善である。それが“政治”の正体だと私は思う。組織を背景としているイデオロギーの戦いは全て、政治上の方便に過ぎない。もちろん我々の生活には、まがいものの正義であっても“政治の力”は、必要である。しかし、その正義がまがいものだと見抜いた上で、個の私的で詩的な言葉の力を高めてゆかない限り、社会全体の質は変わりえないであろう。それはつまり不幸が蔓延する市民生活から、決して脱し得ない社会状態であるとも言える。
組織や、権威を背景にして偉そうなことは言うな。あなたたちの理想は聞き飽きた。魂を裸にして、すっぽんぽんで何か言ってみろよ。
言っておくが、私は無政府主義者ではない。だから社会のルールは必要だと言っているのだ。その時代のルールや常識を守った上で、憲法で思想、信条の自由が保障されているわけだから、組織をつまり政治を離れて、一個人として何か言えないのであれば、端から何も言うな。
本当はこういう辛らつなことは、言いたくないのだけれど、洗脳されている人間ばかり見させられていると、義務として何か言わなければならないような気になる。何のご褒美もないのだけれど。