龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

酔っ払いの覚醒

混乱という概念を、造形化したような光景が日々、繰り広げられている。本当に日本は、どうなってしまうのだろうか。
避難所で過酷な暮らしを強いられている多くの被災者や、計画停電とやらで通勤などの移動に非常な不便を感じておられる関東地方の人々のことを思うと、平穏無事に酒を飲みながら、斯様な駄文を綴っている自分の極楽さ加減が申し訳なく思えて仕方ないのだが、そういうことも含めて、やはり酔わずに素面ではおれない。
私は今、酔っている。酔っ払いの戯言などに真剣に、取り合ってはいけない。しかし酔っ払っているからこそ、見えてくる明晰な真理というものもある。今朝、明け方6時ごろ夢の中に神様が、女性の姿で現れて、私にお言葉を賜れた。そのことについて書くべきだろうか。いや、やめておこう。何せ、私は今、酔っているのだから。ああ、それで、私が言いたいことは、その神様のことである。神々の“天罰”についてだ。
かの都知事が、今回の大震災は、天罰だと申せられて、お叱りを受けた。ご当人も説明が足りなかったと謝罪したようである。良識ある人々は、震災が“天罰”などと言われても、無視をしてまともに相手をするべきではない。しかし、その都知事の思考回路に、波長を合わせて論評するのも一興である。何せ私は酔っているのだから、心神耗弱であると言える。お許しいただきたい。
さて都知事は、日本人のアイデンティティーが、我欲だと言う。そう言われれば、確かにそうかも知れないが、アメリカ人やフランス人の方が、明らかに我欲は強い。だから正確には、日本人は我欲しかないと言うべきだ。アメリカ人の自由、フランス人の自由、博愛、平等は強烈な個の我欲に随伴して存在する理念である。日本人には、アメリカ人やフランス人の自由、博愛、平等、の理念が欠落しているからこそ、比較的に我欲が突出しているように、為政者には見えるだけの話しである。現実には、今回震災に合われた東北地方の方々は、高齢者や幼児など、“我欲”とは無縁の人々ばかりである。
しかし、石原都知事の発言には、本質を突いている部分もあり決して馬鹿に出来ない。無能な内閣の下では、ろくなことが起きないのである。これは事実だ。
1995年の村山内閣の時には、オウム真理教サリン事件や阪神大震災が起きた。その16年後の菅内閣の時に、この東北大震災が発生した。村山内閣の時分と今の菅内閣に同質の殺伐とした不穏な空気を、鈍感でない人々は感じ取れることであろう。神々が民衆の“我欲”を罰して天災が起こるという見方は、私に言わせれば間違っている。神は為政者の無能に怒り、地を揺るがすのである。日本の統治者であるべき総理大臣に決定的に人徳が備わっていない時に、神々は怒りを示す。村山富一と菅直人は戦後の日本政治史の中で、一二を争う徳性の低さは明らかだ。村山と菅の徳性の低さの原因となる、共通点がある。さて、それは何であるか。
もう、答えは明らかだと思われるが、彼らには“愛国心”の欠片も有していない、とういうことである。“愛国心”と言えば、何かしら波風を引き起こす言葉ように思われている節もある。しかし言っておくが、愛国心そのものが戦争を誘発する元凶ではない。第二次戦時中は、“愛国心”が戦争に利用されていただけでのことである。この点を決して履き違えてはならない。どの国の元首も、愛国心を当然の如く有している。愛国心を持たない元首は、国民との約束であるべきを反故にすることに、何ら心に痛痒を感じない。そういう人間がトップである時に、国はどうしようもなく混乱するのである。
伊弉諾尊か、天照大神か知らないが、天上の日本を守る神々は大いに怒られている。愛国心を持たない無能の人間が、国を治めていることに我慢ならないのであろう。そして、東北地方の高齢者や幼児のように、無垢で穢れなき人々が犠牲になる。これが神々の論理と世俗社会との、悲しむべき帰結であろう。
たとえお飾りと言えども、それなりの人格の人間が、政治の頂点に位置しなければ、国民は混乱の最中で地獄の苦しみを味わう運命にある。何千年もの歴史が証明している法則に、今日だけ例外であることは有り得ないのだ。この無能総理を押し立てる人間は、一体、誰だ。さあ、言ってみろ。