龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

武士の家計簿 2

それでは映画ではなく、小説などの活字文化はどうであろうか。クリエイターの視点で推察すれば、小説は、作家が孤独の内に一人で作り上げるものだから、映画のように資金も人員も不要である。創作への物理的な制約がないから、一個人の才能に対する十全な独創の自由が一応は保障されている。ならば今の日本で一人の偉大な作家が書き上げた小説が、社会の腐敗を照射し、新しい時代を牽引し切り開いてゆくような事態が有り得るかと想像すると、ちょっと考え難い。映像と活字の根本的な違いはあるのかも知れないが、活字は消耗され忘却されるだけの文物にしか成り得ていない。日々、たくさんの書籍が刊行され、そのほとんどはあっという間に書店の売り場から消え去ってしまう。出版社に返品され、一定期間、保管された後に裁断されて処分される運命にある。レベルの高い優れた作品であっても採算ベースに掛からなければ、すぐに絶版となって入手不可となってしまう。業界の特性として止むを得ない部分はあると思うが、そこにあるのは商業ベースの判断だけである。だからどうしても作家や出版社サイドが、マーケティング的に短期間に売れるものを志向することとなり、それはつまり既存の社会感性や思考様式に迎合することに重なるから、表現として堕落してしまうことになるのではないのか。そのような社会土壌では、本物の批判能力は育たないと思う。私個人の勝手な考えであるが、映像や音楽は共感能力と、活字としての言葉は批判能力と結ぶ付いているように思える。言葉とは、分節化され細切れになった世界の断片のようなものだから、自分という存在を取り囲む目に見えない力や意識構造に論理的に切り込む力を持ち得ないのであれば、呻き声のようになってしまう。しかし、いくら呻いたところで結局は、誰も同情してくれないし、救ってもくれない。それでは何も言わずに、じっと黙っている方がましである。こういうことを平気で言い放つから、私はいつも孤独なのであるが。最近、ある男性俳優が書いた本が文学賞を受賞して、やらせではないかと批判の対象になっているようである。私はその作品を読んでいないし、読む予定もないので、はっきりしたことは何も言えないが、出版業界はそういうインチキ臭い所が多分にあるように思える。話題性を作っておけば、一定の部数が見込めるからであり、正に商業ベースそのものである。TVほどではないにせよ、活字の出版業界もどこか、ごまかし操作のイメージが完全に払拭し得ない世界だと思う。多くの若者たちが、そういう傾向に対して憤慨したり白けている内はまだ良いが、世の中は全てそういうものだと達観してしまうことになれば弊害はあまりに大きいとは言えないであろうか。そう言えば、村上春樹氏の『1Q84』にも出版業界のそのような裏事情が描かれていた。実を言うと、私は『1Q84』の内容自体に何かしら日本の病んだ社会感性に媚びているような趣きを感じてしまって、2の途中で読むのがいやになって投げ出してしまったのだが。確かに面白いし、日本という捩れの時空の雰囲気をよく捉えてストーリー展開させているので爆発的に売れるのはよく理解できるのであるが、あの小説は私には何かが引っ掛かる。青豆とかという女性の、キャラクター設定が気に入らないだけなのかも知れないが。まあ、しかし折角、3まで買い揃えているのだからその内に我慢して全部、読み通すことにしよう。そしてまた感想を書くことにしよう。
何の話しかわからなくなってしまいそうだが、ともかく、活字の世界(業界)は新聞を筆頭に、油断をしていると騙されそうであり心を許し切れないということが言いたいのである。ごまかしが効くかどうかという評価基準は非常に重要だと思う。役者の演技や映画の良し悪しはごまかしが効かない。同様に小説の質もごまかし得ない。しかし、どのような本や小説が売れるのかという動向は販売戦略の技術次第であり、比較的ごまかしが通りやすい領域だと思う。必ずしも優れた内容の小説や社会的な価値の高いノンフィクションが売れるとは限らない。単純に多数に支持されるものや、注目度の高いものが売れるのである。そして、支持や注目度は、ごまかしの操作と密接に結びつきやすいということである。しかし、ごまかしで小説を売り捌くのはまだ可愛げがある。商売だから仕方ないとも言える。
肝心なことは、(話しが飛躍して申し訳ないが)支持や注目度がごまかしと密接に結びつきやすいという認識が、政治を見る目を養うということだ。このことについては多くの人によくお考えいただきたいと思う。政治とは本来、金がモノをいう世界であってはならないはずだ。しかし現実的に、政党政治が公的な給付だけで賄いきれないほどの巨額の金が掛かるのであれば、政治そのものが自然と金権体質になりゆくことはある意味で必然である。集金能力が政治力の重要な要素にならざるを得ないからである。収賄などの犯罪行為は論外であるが、政治の金権体質は構造的な問題であって、小沢一郎のような特定の政治家をより金権体質的であるという理由で巨悪のレッテルを貼り、比較的、金権体質的でない政治家をクリーンとカテゴライズすることはできないはずだ。なぜなら政党政治の構造問題である限り、巨悪もクリーンも結局は、同じ穴の狢であるからである。ところがこの政治の構造的な問題を温存させたまま、イメージ的に巨悪とクリーンの概念を操作するマスコミ情報は、支持と注目度をあやつる“ごまかし”そのものである。この点について触れると、一斉に蜘蛛の子を散らすように走り去る足音が聞こえてきそうであるが、そんなことはどうでもよい。本当に大切なことは、支持と注目がなくともいつかは誰かが言明しなければならないからである。つまり日本社会でもっともインチキ臭い世界が、国民の生命と財産を守るべき政治なのである。なぜインチキ臭くなるかと言えば、政治が強者の商業ベースのみで動いている勢力に牛耳られてしまっているからだと思われる。現在の菅政権など、日本のインチキ臭さの象徴そのものに見える。
一人の役者が日本の映画界の存亡を賭け、与えられた役を全身全霊で演ずれば、昏迷の時代に一筋の光りを差し入れるかの感動を与えることができる。有名人の書いた小説に賞を与えて話題と注目を集めれば、出版社は売上げを稼ぐことができる。どちらも日本という国の一断面であり、資本主義システムの内側にあるのだから同じ土俵であることは確かだ。しかし、その質や志の違いを鋭敏に区別して、積み木細工のように一から積み重ねてゆく作業を始めなければ日本は変わり得ないのだと思う。それでは日本という社会システムを統治し再興するために、最も外側に立脚すべき政治はどうかというと、実は一番内側で、強者の商業ベースに毒されてしまっていて腐り切っている。
どうすればよいのだろうか。本当に、如何ともしがたい。