龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

草食系のニヒリズム

ああ、それにしても私という人間は
何をしていても、虚しい。
何かをしていなければ、もっと虚しい。
ところで、私の虚しさの原因は、
私個人の精神性だけにあるのではない。
日本という国が、その資本主義システムの
爛熟を通過した腐敗プロセスが
欺瞞に満ちたインチキの力で
人間の一個の生を石ころのように
虚しく腑抜けさせる装置のごとくなっている。
もちろん今、虚しければ
100年前(明治時代)であろうと
1000年前(平安時代)であろうとも
いつの世の人生もそれぞれに虚しいであろう。
それは、わかっているつもりだ。
100年前は、天皇陛下が神様であった。
身分制度の残滓が色濃く残っていた。
1000年前は、そもそも人間の数が今に比べれば
圧倒的に少なかった。魑魅魍魎の妖怪たちの方が
人間よりも多かったぐらいだ。
1万年前のことまでは知らん。
恐らくは、虚しさの感覚自体がまだ人類に
備わっていなかったのではないか。
太古の昔より人間の肉体は、ほとんど変化していないが
人生の虚しさの質は、社会体制の移り変わりとともに
大きく変容してきたであろう。
そして虚しさを感得する能力は
自分で言うのも何だけど
高度な精神性の働きに属している。
なぜなら社会の本質を見極めた後の、人生への諦観が
虚しさの正体だからだ。
この人生の虚しさを超越する社会概念に辿り着くと
人類は恐らく飛躍的に進化して
宇宙人に仲間入りできるのかも知れない。
但し、私の虚しさは諦観の他に、
多分に怠惰の心も混じっているであろうから
あまり人様に自慢できる性質のものでないことは
認めることにしよう。
ともかくも、私は虚しいのだ。
この国の、この時代の虚しさが、耐え難いのだ。
天上の神々は永劫の時の中で
どのように虚しく在らせられるか。
この世において、私はどうしても
快楽主義者には、なれそうもない。
ああ、だから
この虚しさの果てで、私という実体までもが
空気のように霧散してしまわぬように、
私は、ただひたすら瞑想する。
集中し、虚無を観想していると何故か
私の実体はそのままに、虚しさがひと時
消えてなくなるようである。
私は確かに生きている。
萎れかけたシクラメンの葉が
水を吸って生き返るように
私の生気は音もなく漲る。
そして以前よりも何かがよく見える。
物質の背後に隠された
形而上的な意味が
わかる…ような気がする。
しかし、なぜだか私はその時に
微かな悲しみの感情に包まれてしまうのだ。
虚しさが静まれば、悲しみが募る。
そうして私は、自らの肉体を引き摺るように
一人でそっと街に出る。
今こそ、外界に触れなければ、
そして、道行く人々や街並みを観察して
新たに獲得した眼力と洞察力を試すのだ。
師走の繁華街にはとても人数が多い。
若くて美しい女たちが、
はち切れんばかりの笑顔で、
虚しさの欠片も見せずに
街中を闊歩している。
これが、世の人々が言うところの
“肉食系”という性質なのか。
ああ、恐ろしい。
踏み潰されそうだ。
所詮、私などひと時の間
魂に瑞々しさを得たところで
つまるところは、シクラメンの如く
“草食系”の人間である。
僅かばかりの眼力と洞察力が
群集の圧力と
肉体の確かな存在感の前で
一体、何の役に立つというのだ。
木枯らしに吹き返されるように
現世の厳しさに、打ちのめされるように
私は、すごすごと家路につくことになる。