龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

愚民と非愚民の民主主義

現時点で、塩村文夏議員が、議員になる以前に出演していた「恋のから騒ぎ」の動画は削除されていないようだ。それはおそらく、私が6月24日に、「この私が、このようなことを指摘すると、当局は慌てて該当する動画を、削除するのであろうが、勝手すにればよい。」と記述したことに対する、返答と言うか、まあ風流に言えば、上の句に対する、下の句のようなものである。しかし6月24日以降に、少なくとも一旦は、このヤジ特定問題がシュンとなって沈静化したことは事実である。私が投稿した記事によって、明らかに「社会の流れ」が、変わったのだ。あたかもサッカーW杯で、コートジボワールドログバが投入された以降にゲームの流れが変わって、日本が敗北したようにである。そして6月27日に、私がまた同じ問題でマスコミの対応を揶揄するような記事を投稿すると、その翌日に朝日新聞が、また思いついたように矛を納めていたヤジ問題を持ち出して、都議会は(マスコミはではなくて)幕引きするのではなく、再調査するべきだなどと言い出している始末である。これも個人的にはある程度、「予想された展開」ではある。何が言いたいのかと言えば、何も私は自分が、社会を動かす重要人物であるとか、文章表現によって少なからず影響力を行使し得る力を保持しているなどと、その能力や才能を自慢したり、誇示したい訳ではない。実際にはそんなことはない(つまり私の記事が原因になっている訳ではない)し、たとえそうであったとしても、そんなことを自慢して何になるのかということである。はっきり言って、虚しいだけである。別に誰から褒めていただけるわけでもないし、それに私はそれほどの馬鹿ではない。馬鹿でないどころか、自分で言うのも何だが、賢いのである。いや、もっと言えば、「賢過ぎる」のである。この「賢過ぎる」という表現は、これまでの我が人生において何度も、言われ続けてきた言葉ではあるが、必ずしも良い意味合いでもない。日本人が(と言っても私も日本人だが)、誰かに対して「賢過ぎる」という場合には、過ぎたるは及ばざるが如し、のような意味合いが暗に含まれているものである。対人関係においては、男性からはそうでもないが、特に女性からは、私自身はそういうつもりは毛頭ないのであるが、「上から目線だ」などと批判されることが多い。まあ、わが半生の自己分析は今回のヤジ問題とは、関係ないのでこれぐらいにしておくが、とにかく、私はそういう風に誰かに自分の能力を誇示したり、自慢したりすることは、潜在的、あるいは無意識的には当然、有り得るであろうが、基本的にはそういうこととは無関係の地平で表現しているものである。だからある種の人々にとっては、私の表現は大変に「危険だ」ということになるのであろう。その「危険」という意味合いも、「賢過ぎる」私にはよくわかるものである。しかしどうなのだろうか。「危険」とは主に商業主義的なマスコミの権威や利益と結びついた地点から発せられる指摘なのではなかろうか。そういう一つの大きな枠組みの中で、社会秩序や既得権益を守ろうとする異端排除の声ではないのか。私の表現には、一つの意図があって、それは自分の頭で考えられる少数の人々に、私の表現を通して、追求するべき、本当の意味での望ましい社会秩序の有り方とか、国民全体の幸福や利益というものをよく考えていただきたい、ということである。たとえば、今回のヤジ問題と塩村文夏議員の素行に対する私の記事内容との関連において見れば、その心は、政治とマスコミの微妙で面妖な関係性を、国民主権の立場からどのように認識し、またどのように改善していくのかという一つのより大きな問題提起なのである。確かに女性の尊重や活用は重要なのであるのかも知れないが、その背後には、もっと重要で切実な日本の病巣となっている構造問題が伏在しているのではないかということである。一口に「自分の頭で考える」と言っても、そんなに生易しいものではないと考えられる。有史以来、いつの時代にあっても、どの国家にあっても、自分の頭で考えられる人間は、全体の中のごく一部であったのだと想像される。一部と言ってもその割合が、果たして5%なのか、1%なのか、0.1%なのか皆目、見当もつかないが、どんなに多く見積もっても10%以上ということにはならないのであろうと思う。そしてその違いは確定的なもので、わかる人間にはすぐにわかるが、わからない人間には死ぬまで(死んでも)わからない性質のものである。当然そこには、洗脳とか政治の愚民政策のようなものもあるであろうが、卵と鶏のどちら先かという問題ではなくて、やはり「わからない人間の層」は、どんな教育や啓蒙の下でも、いやそういう教育や啓蒙の影響によってこそ、死ぬまで本当の意味では自分の頭で考えられない人種ということになるのだと思う。こういうことを本当は言ってはいけないのかも知れないが、人間は洗脳されて生きている方が楽であるし、人生に希望がもてて、絶望による自殺からも回避されるのだと思われる。真実とは太陽のようなもので、直接、見れば目が潰れたり、近づき過ぎるとイカロスの翼のように焼け溶けることになる。日々、朝日新聞天声人語を書き写してより文化的に洗練された人間になろうと努力する人々も、創価学会という巨大な宗教団体の中で、選挙時になると死に物狂いで集票活動に励む信者も私の目から見れば広義には同じ種類の人々で、そういう集団によって世の中がよくなることは絶対にないと私は考えるものである。なぜなら単に操作されているだけの人々は、どれほど多数であろうと、どれほど高邁な理想があろうと、操作されている以上の創造的な力を発揮できるわけがないからである。なら民主主義の正体とは何かということになるが、私は民主主義を否定する訳ではないが、結局、ごく少数の自分の頭で考えられる人間、わかる人間によってしか、社会進歩は有り得ないということにならざるを得ないと結論づけられるものである。そういう諦観のもとで生きているから本質的に私は孤独であるし。またそういう諦観で表現しているから、多くの人から支持されなくても当然であるが、それでも私は、自分の頭で考えられる一部の人々に訴えていきたいと思うのだ。それが私の役割と言えば、役割である。