龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

渥美清さんの俳句について

俳句のことについてはよくわからないが、まれに心が通じたような遭遇をすることもある。具体的にご紹介すれば、こういうことである。別のところでも述べたが、先月の918日に高校時代の同窓会があって、35年ぶりに旧友と再会することとなった。二次会からの出席であった私は食事を取っていなかったので、二次会のホテル近くのうどん屋で腹ごしらえをしてから参入することにした。それで一人寂しくちくわ天うどんを食べていると、店内の壁に張り紙があって、そこに直筆なのか印刷なのかわからないが、渥美清さんの俳句が、展示されているのが目についた。ここのうどん屋の店主は渥美さんのファンなのかな、などと思いながら何気なく見ていたのだが、こういう句であった。
赤とんぼ じっとしたまま 明日どうする
お遍路が 一列に行く 虹の中
あと二句ほどあったが、忘れてしまった。渥美さんの句を見たのは、その時が初めてであったのだが、私のその時の印象は、渥美さんの人柄がにじみ出ているいい句だなと、うどんを食べながら見ていたのであった。特に渥美さんの眼差しが背景となって、情感と光景が表現されている句だと感じた。そして渥美さんの眼差しには、どことなく寂しさとか孤独がある。そのそこはかとない寂しさ、孤独感が渥美さんの作る句の特徴であり、作品に余韻を与えているように感じられた。また渥美さんの孤独を含んだ眼差しは、私の心に通ずる何かがあるようにも思えたのであった。
それだけの話なのであるが、その僅か4日後の9月22日の朝日新聞天声人語に渥美さんの俳句が紹介されているのを見て、思わずはっとなる。
俳優であり俳人でもあった渥美清さんに次の句がある。<赤とんぼじっとしたまま明日どうする>
偶然といえば偶然に過ぎないであるが、今、特に渥美清ブームというわけでもなかろうに、僅か数日後に、世の中に何千、何万も存在するであろう俳句の中の同じ一句が私の目の前に出現するのは、やはり不思議な奇遇である。これがどういうことかと考えるに、特に意味などなかろうが、私はこういう風に解釈する。上に述べた通り渥美さんの句には、渥美さんが対象を見る眼差しがあって、そこから生まれる情感とか感慨が、渥美さんらしい作品の質となっている。うどん屋の店内で私が初めて渥美さんの句を張り紙で見たときには、私自身の渥美さんの句を見る同質の眼差しがそこにはあったのではなかろうか。渥美さんは、或いは渥美さんの句は、恐らく私の視線に気付いたのであろう。そして時空を超えて私の方に振り返ったのである。それが天声人語に紹介された渥美さんの句なのであって、私には渥美さんか渥美さんの句が、私をちらっと見て軽く会釈してくれているようにも感じられたのであった。もちろん言うまでもないことだが、こういう内容の話の半分は、こじつけである。残りの半分は真理であるかも知れない。人生とは半分ずつのこじつけと真理で成り立っているのであろう。それもよくはわからないが。