龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

武士道精神を日本人は見直すべきだ

年が明けても、何も変わることはない。私がこの現実世界に未だ存在しているという事実も含めて。この2か月ほど世界がどのように変化していくのかを見定めるために頭を整理しようとして沈黙を保ってきた。コロナに関しては思うこと、言いたいことはたくさんある。しかし私が何かを主張することにおいての基本的なスタンスは、どう考えてもそれが尤もらしい見方であり、そうとしか考えられないものであるにも関わらず、何らかの事情や社会的な状況で、誰もそうだと指摘したり、意見を述べることが許されないような事態において、仕方がないから私がいやいやというか渋々、これは本当はこういうことなのではないのか、皆が黙っているのは、黙らされているのは正しい世界の在り方ではないと縷々、説明するという消極的な姿勢であって、別に私はその行為によって不特定多数の他者から支持を得ようとか、賛同者を増やしたいなどとは全く思っていないものである。それが私と世界との関係性なのであって、一般的には中々理解されにくいことかも知れないが私はこの世界から果実をもぎ取るように何かを得ようと考えているのではなくて、ただ夢を見るようにぼんやりと眺めているだけなのである。積極的に、実存的に世界と関わろうとしていないという以上に、ある意味ではもう既に死んでいるとでも言うのか、肉体的に生きてはいても私と言う存在の中核に存在するものは死者の視点なのである。それが果たして正しいのか、間違っているのか、健全なのか不健全なのかはともかくとして、だからこそ見えてくるものがあり、それが生きる者の生存に役立つのではないかと考えている自分がいるということである。誤解のないように言っておくが、私のこの精神性は仏教の教えだとかスピリチュアルなどとは何の関係もないもので、日々、現実の現実性を追求していく中で自然と養われてきた諦観のようなものだと考えている。言い換えれば、今のこの世界は、生きてはいても死者の目と頭で理解しようと努めなければならないほどに生き難く、また理解し難いものであるといえるであろう。たくさんの金を儲けようとか、多くの人に支持されたいと願ったり、社会的な評価を得ようと努力することは当然間違ったことではないし、生きる上での原動力であることも事実であるが、それだけだと、それで勝ち組と負け組に分かれるゲーム性が世界の全てであるならば、生きると言うことは盲目の闇の中に囚われているのであって、そのゲームのシステムなりルールの流れの中に川に浮かぶ木の葉のように飲み込まれているだけだと言えるのではないのかということである。コロナの現実というものも世界を押し流そうとして組み込まれてゆく新しい世界への計画というかプログラムのように私には見える。私にどう見えるかはどうでもいいことかも知れないが、ただ一つ確かなことは世界を操作する権力を有する者にとっては、見えない人間がたくさん存在する世界の方が操作しやすいので、見えない闇のシステムに絶えず人類を押し込めようと画策するということである。政治の要諦とは、日本の政治なども明らかにその部類であるが、マスコミの報道も含めてそれが全てであると言っても過言ではないほどであろう。だからこそ、自分を正当化するために言うのではないが、生きてはいてもどこかで死んでいなければならないのだ。これは特に日本の武士道に通ずるものがあると思われる。最近、DVDで豊川悦司主演の映画『必死剣 鶏刺し』を見て、その演技の素晴らしさに感動したが、絶体絶命の瀕死の状態で、命と引き換えに出し得る武士の一刺しというものがあるということだ。決して死を美化するわけではない。死んでしまえば何もない。武士道とは死の境地を織り込んだ生き方なのだと思われる。今、この時代にこのようなことを言っても誰にも相手されないことはわかっているが、日本人は今こそ武士道精神に立ち返れとは言わないが、その価値を見直す必要性があると言えよう。それにしても『必死剣 鶏刺し』はいい映画だった。吉川晃司も池脇千鶴もとてもいい演技をしていて心に沁みた。刀に斬られて真っ赤に噴き出す血を美しいと思ったのはこの映画が初めてである。

話しは変わるが毎年、大晦日は紅白は何十年も見ていなくて、格闘技をTV観戦している。こんな私ではあるが、格闘技が好きなのである。それでライジンについて言いたいことがある。これもコロナとは全然、次元が違いことだが、誰も言わないのであれば、仕方がないので私が言わなければならないのかなということだが、ライジンの榊原社長はもっと選手を大切に扱わなければいけない。選手は、選手の立場では言えないであろう。では選手以外の格闘技に関わる人はどうして言わないのであろうか。これも私に言わせれば、日本人が武士道精神を失って、儲けや注目度ばかりを追求している結果である。こんなことを続けていれば、日本に本当の格闘技ファンは増えないであろうし、格闘技の社会的地位も向上しないであろう。別に私は朝倉兄弟のファンでもないし、彼らの心情を代弁するつもりもないが、一日に二試合もさせるのはちょっと無茶である。朝倉海は準決勝で右手を骨折していて、痛み止めの注射を何本か打って決勝に臨んだということだが、選手寿命を考えれば本来は決勝は棄権すべきところであるが、さすがにメインイベントで登場するあの場面ではその選択はあり得ないであろう。拳を壊しても良いと決意して出場した海の心意気は立派なのかも知れないが、興業の在り方としては間違っていると私は思う。それは選手の武士道精神として称賛されることではなくて、単に興業における選手の健康を無視した金儲けのやり方の問題ではないのか。運営やシステムの問題を選手個人の武士道精神にすり替えて注目の対象にしてはならない。兄の未来の試合についても言えることだが、勝ったから良いというものではなくて、3週間ぐらいで11kgも減量させて、計量の前日に水抜きで一日で5kgも落とさせるような事態は、今回の大会だけではないが運営側にあまりにも計画性と選手の健康への配慮がなさすぎることが明らかである。シバターの試合もそうだが、20kgも体重差のある久保優太にMMAルールで対戦させるのは運営側に選手に対する敬意や大会そのものへの品位の意識が欠落していることの現れでしかないのではないのか。ライト級タイトルマッチのホベルト・サトシ・ソウザ選手が試合後にマイクを持って、榊原社長にベラトールの選手と対戦したいと訴えていたが、内情はよくはわからないが、あれだけ強ければ今の日本国内に対戦相手はいないので活躍の舞台を海外に移したいと考えることは当然である。未来と対戦したクレベル・コイケ選手も契約のことでライジンと最近までこじれていたということだが、ライジンの選手に対する全体的な扱いから考えて、日本に住んでいるボンサイ柔術の選手を外国人労働者のように見做しているのではないかと思えて腹が立ってくるものである。どういう経緯で榊原氏がライジンの社長になったのかは知らないが、適任者は他にもいるのではないかと言いたい。ともかくも年始に際して思うことは多々ある。誰かが言うのであれば基本的に私は何も言うつもりはない。誰も言わないのであれば、止むを得ず、私が私なりの武士道精神で、そして死者の視点で、何ごとかを言わなければならない個人的な必要性に迫られる。それだけのことだ。

(吉川 玲)