龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

謀略国家である韓国

韓国、仁川でおこなわれたアジア大会でカメラを盗んだとされる競泳の冨田選手が冤罪を訴えて韓国で裁判を請求することとなった。個人的には冨田選手のこの裁判への決断だけでも無実であることが十二分に推測されるものであると思う。異論のある人も多いであろうが、冷静によく考えていただきたい。人間は最終的には合理的な判断で動く動物である。そして正直に生きている人間よりも、嘘をついている人間のほうが合理性に収束されるものである。合理性というよりも、打算的という方が適切であるかも知れないが、わかりやすく言えばこういうことである。仮に冨田選手が本当に窃盗をしているのであれば、韓国で裁判を提起するようなことに何のメリットがあるのか。今や収入のない身であるのに多額の裁判費用が要することとなるのである。冨田選手が窃盗をやっていることが事実であるなら、韓国の裁判所が事実認定を誤って無罪の判決を出す可能性など0である。それどころか韓国の警察が握っている決定的な証拠の映像を公開されて、全く言い逃れの出来ない状況に追い込まれれば、冨田選手の立場はどうなるのか。裁判を提起するという手段そのものが、違法ではないにせよ、悪質な濫訴の性質がある行為として世間から厳しい批判を受けるであろうことは、火を見るより明らかである。特に今回の問題は、日本と韓国の外交問題が絡んでいるものである。冨田選手の弁護士は、韓国側の陰謀の疑いがあるとまで踏み込んだ発言をしているものである。このような状況で、冨田選手の「嘘」が完膚無きまでに暴かれ、証明されるような事態となれば、普通の人間の感覚では到底、生き続けることすら難しいものである。もちろんそれでも平気だというような図太くも鉄面皮の人間はいるであろうが(日本の国会議員はそういうタイプの人間の方がはるかに多い)、冨田選手がそこまでのタマだとは到底、思えないものである。合理的、打算的な行動原理からすれば、窃盗を本当に行っていながら、裁判を提起する流れは常識的には考え難いものである。無実であればこそ、勝算という理性的な見込みを度外視してまで、却下されることが分かっていても真実を訴えたいという気持ちになるものである。もちろんそのような判断、解釈は事実の証明にはならないであろうが、私は人間の行動とは、表面的にはどのような虚偽に支えられていても、あるレベルで見れば分裂病者でもない限り合理的な整合性は取られているものだと考えている。以前に述べたことを繰り返すが、私は冨田選手は冤罪であり、今回の事件は韓国の警察や政治が直接に仕組んだり、指示したものかどうかまではわからないが、韓国側の陰謀だと見ている。個人的にはそうであるとしか考えられないし、またその見立てにそれなりの自信を持っているものである。
しかし韓国の裁判で、冨田選手の無罪判決が宣告されることなど有り得ないことである。通常であれば裁判といえば、先進国の裁判であればそれなりの独立した権威が認められるものである。しかしこれは誰もが同意してくれることだとは思うが、韓国の裁判が政治から分離、独立していることなど有り得ない。これは韓国国内の政治家の不正行為が、裁判で認められるということとは全然、次元の異なる話しなのである。外交上、国の面子をまもるということであれば全ては政治判断の判決しか出されようがない。それが日本相手ということであれば100%の政治判断となるであろうし、裁判所が警察に証拠の隠滅や改ざんを命じるようなことも平気で行われることであろうと推測される。韓国とはそういう国なのである。まずその次元の最低限の認識を日本人は共有する必要があると思われる。日本においてもある程度は言えることであるが、裁判所とは必ずしも真実を追求する場ではないものである。特に韓国は、世界で最も真実の価値が低い民度の国であると見られる。それはお国柄でもあるが、真実よりも、真実を無視して先進国家としてのアイデンティティーを形成していかなければならない段階にあると韓国の政治に認識されているからであろう。よって韓国とは本質的に国家の土台そのものが陰謀的な性質を備えていると言える。歴史解釈など全ては、その延長上の国作りの一環なのである。韓国は自国のイメージ向上のためには何だってする国家であると思われる。そのための謀略であり、そのための裁判なのである。ならば冨田選手の韓国での裁判は、全く無意味かといえばそうではない。なぜならいかに韓国と言えども裁判所が、原告に具体的な主張をさせないように圧力をかけたり、主張内容そのものを故意に捻じ曲げるような行為はし難いからだ。判決の段階では原告側の主張を否定するための論理や理屈など何とでもなるが、主張そのものを抑え込むことは無理がある。よって冨田選手が無実であるなら、そこにどうしようもなくその真実らしさや、韓国警察の怪しさというものが立ち現れてくるはずである。我々はその段階で各々が判決を超越した真実というものをよく吟味し、人権であるとか日本の今後について考察しなければならないはずである。しかし問題は、裁判での具体的な弁論内容を日本のマスコミがどこまで正確に伝えるかということである。韓国側の主張や反論が怪しくなれば怪しくなるほどに、マスコミは報道を忌避する可能性が強い。もう今から、日韓の建設的な外交関係に配慮して(報道を差し控える)という声なき声が聞こえてきそうである。嘆かわしいことだ。