龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

夫婦別姓と天皇制について

明けましておめでとうございます。今年はどのような1年になるのでしょうか。多くの日本人にとっては経済的な生活苦が一層、強まる状況だと見られます。政治に期待できないだけに、生活防衛の本能として庶民の財布のひもはより厳しく引き締められることとなり、一部の原材料費の値上げがあったとしても、基本的には末端の消費デフレ傾向は継続されることとなるのでしょう。
新年の最初に何について論じようかと少し迷ったのですが、まあ何でも良いのですが、昨年末にも述べた夫婦別姓問題について日本の議論に欠けているのではないかと思われる視点について補足的に説明させていただくこととします。それは、夫婦別姓が将来的に仮に制度として採用されることとなったとすれば、果たして日本のこれまでの家族制度と相性的にそぐうものであるのかどうか、調和が保たれるのかということです。どの国の人間も家族単位で生活しております。それはロシアや中国、北朝鮮のような社会主義制度の国であっても同様です。よって家族とは普遍的に社会の構成最少単位であると定義し得るものです。しかしそれでは、家族意識が世界共通であるかと言えば決してそうではないと思われるものです。日本では明治維新後に復活させられたものですが、戸籍制度があって、家ごとに公的に管理されております。それゆえに管理されている国民の側においても、「家」を自らの出自や精神的なアイデンティティーとの関連において重視する傾向が他国に比べて強いのではないかと考えられます。ヨーロッパやアメリカなどにおいても、たとえば「ハプスブルグ家」であるとか、「ケネディ家」などと家の系統が強調されることはありますが、それはごく一部の由緒ある貴族の末裔であるとか、権力の中枢に近い家柄、大富豪などを指す場合がほとんどであって、無名の庶民の家が「~家」として自らのアイデンティティーの土台として語られることはほとんどないのではないかと思われます。私の家などもそうですが、有力者でも金持ちでもないですが「家紋」があって先祖から継承されております。このような日本の伝統的な家重視の傾向は、日本人が純粋に単一ではなくとも、単一に近いような民族構成にあって、近代以降は家を自らのアイデンティティーと結婚など他者とのつながりのよすがとして捉える民族意識の現れではないかと考えられるものです。それが良いのか、良くないのかは別問題ですが、社会学的な目で考察すればそういうことになるのではないかということです。それではその日本人の家意識と姓の関連については、どのように結びついているのでしょうか。やはり良い悪いはともかくも、日本人の家意識は一家を代表する単一の姓として捉えられ認識されていることが重要であると言えるでしょう。
現実的な問題で述べれば、習慣的に我々は町内会など近隣住民の自治会などにおいて町内会費を集めたり、回覧板を回して連絡事項を知らせる時に、特定の家を指して、「~さんのお宅」などと言います。この~さんとはその家を代表する単一の姓であって、これが夫婦別姓でたとえば田中さんと鈴木さんということになれば、その通りに「田中さんと鈴木さんのお宅」と呼べないことはないですが、一軒の家ならともかく数十件の家の両姓など覚え切れるものではないですから、中長期的に見れば姓名の問題ではなく「家」を社会構成の最小単位として認識することが難しくなってきます。また宅配便で中元や歳暮などの荷物を送るときに、どちらの姓を明記すればよいのかということもあります。送り状に両姓を併記して、全ての家の表札に両姓が掲げられていれば間違うことはないと主張されるかも知れませんが、手間もコストも掛かることですから、全家庭がスムーズに変更し得るものではありません。どちらかの姓で送付して、表札にはその姓が出ていなかったから、送付できなかったというような混乱も当然、生じることでしょう。同様に、私も中学生の息子がいるのでわかりますが、親が子供の学校の授業参観や運動会などに出席する時には、現在では安全上の対策として父兄の名前を学校が用意している用紙に記入してから学校内に立ち入ることとなっていますが、その際に、子供とは違う姓を多くの親が記入する事態となれば、学校側ははたしてそれが誰の親なのか、一見して把握できなくなるので、非常に不便であると同時に安全上のリスクを生じさせることともなります。また子供が学校から持ち帰った重要書類に親が署名して返す場合なども、親が子供と違う姓をそこに記入することはやはり心理的な抵抗が大きいと考えられます。ならば子供と同姓の親が子供の学校行事に参加して、書類に記名すればよいかといえば、そういう問題ではないはずです。姓は違っていても、婚姻していてつまりは両親とも親権者なのですから。
つまりそのような生活上に生じる混乱や心理的な抵抗感は、夫婦別姓支持論者にとって見れば、取るに足りない些事で考慮する価値もないと言われるかもしれませんが、現実的にはそのような些事がこの議論の本質であると言えるものです。なぜなら確かに夫婦別姓論者が主張する通り、夫婦別姓によって必ずしも家族の結びつきが弱められたり対立が煽られるものではないでしょうが(それも人それぞれなので一概に言えることではないですが)、上に紹介した例のように、中長期的な視点で見れば内在的にではなく外形的に(つまり他者の家族関係を識別するという視座において)、家への意識が変質し、崩壊とまでは言いませんが希薄になっていくことはほぼ間違いないと考えられるからです。それゆえに夫婦別姓導入への運動は、政治的には家族制度を解体する明確な意図はともかく、少なくとも方向性は有していると見れるものです。この夫婦別姓は突き詰めれば、論の飛躍だと言われるかも知れませんが、天皇制存続の可否にも深く関連するものです。国家とは文字通り、国の家であり、つまり国民とは特定の大きなファミリーの一員であると定義づけられるものです。アンケートを取ればわかることですが、夫婦別姓を支持する人は、反対する人よりも天皇制に否定的な割合の方が大きいという相関関係ははっきりしているのではないかと推察されます。それでは日本人にとって天皇制とは憲法の条文内容ではなく、どのように心理的、具体的に作用しているかと見るに、ごく簡単な言葉で説明すれば、曖昧に国民全体の心を結び付けて、一つの大きな安心感や社会の治安を生み出す上での大元になっている原理であるということができるのではないでしょうか。
夫婦別姓の問題は、個人の自由と家制度の形骸化の問題でもあり、最終的には天皇制についての賛否を問うことにも繋がる非常に複雑かつ微妙なテーマであると言えるでしょう。私は個人的には、現状の日本における天皇制は確かに他国には見られないような美質を生み出していることは認めざるを得ないものと考えます。たとえば阪神淡路大震災や東北大地震のような未曾有の災害に見舞われて多くの人が亡くなったり、生存者が生きる希望を持ち得ないような悲惨な状況に陥っても、被災地において略奪行為や強盗などの治安の悪化がほとんど見られず、皆が協力し合って生きて行こうとする心の結びつきが自然と生まれるところにあります。そしてそのような被災地に天皇陛下がお見舞いに訪れ励ましのお言葉を述べられ、家族の命や家など財産の全てを失った被災者が正座をしてその天皇陛下のお言葉を有り難く聞き入っている姿も日本ならではの光景であると言えるのではないでしょうか。それが日本の美質であります。困ったときや苦しい時にこそ励まし合い、助け合おうとする精神性が自然と備わっているものです。しかし一面においては、言い難いことではありますが、日本人は本質を見ようとしない傾向が大きいものです。これもまた天皇制と深く関係があると私は見ています。なぜならことの本質を見据えてしまえば、全体的な曖昧な結びつきによる日本の治安や心の安らぎの阻害要因となってしまうからです。曖昧に玉虫色にぼかしてことの本質を直視しないような安寧秩序が日本の本質であると言い換えることができます。そしてそのような日本の伝統的な特質が、今日においては日本の民主主義の成長や脱皮にとっては、マイナスにしか働いていないような気がしてなりません。基本的には人任せ、お上任せなのです。権力のどのような嘘であっても日本人は消化して受け入れてしまうものです。もちろんだからと言って、即座に天皇制を廃止せよなどというつもりはありませんが。ただ私は夫婦別姓の問題を、このような日本全体の大きな観点から考察する視点が全体的に欠落したままに、近視眼的に個人の自由拡大や女性差別撤廃だけの目的で、粛々と議論が進められていくことが非常に危険だと感じている次第であります。