龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

夫婦別姓論議について

夫婦別姓を主張する人の考えと言うものがいまいち私には理解できない。個人的なことを言えば、私が離婚した時には当時小学校3年生であった息子の親権者が私で監護権者が元妻となり(その決定に至るまで調停や裁判などで散々に揉め、苦労したことは言うまでもないことだが)、離婚が確定した時点で、元妻は一旦姓を旧姓に戻す届け出を役所にした。しかし私が息子の親権者であるから息子の姓は当然、父親である私の姓であり、離婚しているとは言えども監護権者として息子と一緒に生活する母親の姓が異なっているのは息子のためにはよくないと元妻は考え、悩みもしたようだが改めて元夫である私の姓に戻す変更の手続きをした。そのような場合、離婚で旧姓に戻した届出から確か2週間以内であれば再変更ができるとのことであった。(元妻から聞いた話なので正確なところはよくはわからないが。)それで離婚後6年経過した今でも元妻は私の姓で通している。私の立場からすれば離婚時に元妻の姓をどうするかは元妻が決めることであり、私がどうのこうのと言えることではない。息子が私の姓で、母親である元妻が旧姓で二人で生活する事態もあり得たが(正直に言えば当時の私は自分が親権を取得して共同親権に近い形で離婚を成立させることで頭がいっぱいでそういうことまでは考えられていなかった)、結果的に元妻が息子との一体的な生活スタイルを重視して私の姓を採用してくれたことは有り難くも思い感謝もするけれど、同時にまあ当然と言えば当然のことでもある。なぜなら元妻はパートで働く職場では旧姓を使おうと思えば使える訳であり(実際には職場でも私の姓を使っているが)社会的には姓を選択する自由、権利を得ているのだから、戸籍上の形式的なことは未成年者である子供の福利というか気持ち、目線に合わせることは親として当然であると言えるからだ。これは逆もまた真であるとはならない。つまり私のケースで言えば、元妻が戸籍上の記載に旧姓を選択すれば、息子との家庭生活において元妻が離婚した元夫である私の姓を通称姓として使用するということは実際的にはあり得ないということである。その場合はやはり夫婦別姓ならぬ母子別姓ということになるのであろう。私が理解できないのは、夫婦別姓を主張したり裁判で最高裁まで戦っているような人は、そのような母子別姓なり親子別姓の弊害を意図的に無視したり軽視しているのではないかと思えてならないということである。自分だけの個的な問題であれば、女性の姓の選択など場面に応じて自由が利くのであるから現状においても何ら不自由はないはずなのである。何も権力で強制されている訳ではないのだ。選択の自由があるにも関わらず、あくまでも制度上の瑕疵として夫婦同姓は間違っているとか、けしからん、差別だなどと訴えることは、これは我々の通常の生活感覚に沿ったものではなく、純粋に政治運動であるということである。もちろん日本においては憲法で思想、信条の自由は認められているのであるから、各個人がどのような政治的考えを持とうとも自由であるが、今の夫婦別姓問題の捉えられ方や報道の有り方は、これは日本のマスコミの常態的な問題でもあるが政治的に特化した思想、主張をあまりに安易に通俗化させて我々一般の生活感覚、日常意識に沿うようなものとして組み入れようとするところにある。そういう大衆操作が日本の民主主義に擬装されることによって、マスコミのプレゼンスばかりが高められ、本物の民主主義がいつまで経っても育まれない結果になっている。女性の社会的地位向上をいうのであれば、それ自体に私は反対するものではないが、夫婦別姓などという日常の生活感覚から独立してかい離したような政治運動などではなく、今の時代の焦点は男女問題ではなくて生活の困窮や子供の教育費の増大などから家庭という共同生活を維持し続けることが非常に困難になってきており、若い人々が結婚して家庭を持つことを忌避しようとする傾向が大きくなってきていることが日本にとっては大きな問題なのであって、そのような社会状況をよく弁えながら、子供の健全な生育環境であるとか、幸福な家庭の有り方とのバランスにおいてあくまでも相対的に女性の地位をどのように引き上げていくべきかという枠組みで思考すべき課題であると言える。またそういう方向性が政治のあるべき本来の姿ではないのか。全体が立たずして部分は存立し得ないのである。全体を、調和を、幸福を壊してでも認められなければならないような先鋭的な政治運動は、本質的には運動のための運動、主張のための主張に過ぎないのであって、将来的に災いや対立の種とはなっても豊かな果実には決してなり得ない性質のものである。