龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

通り魔事件と日本の言論

下らないなどと言えば、反感を買うであろうが、それでも下らないものは下らないとしか言えない。通り魔事件で自殺した犯人に対して「死にたいなら一人で死ぬべき」との発言を問題視すべきかどうかということの論争がいつまでも覚めやらない。論争の趣旨はわからないでもないが、暇人なのであろうか。今、検討、議論しなければならないことはそういうことではないであろう。小さな子供が通り魔事件の被害で貴い命を失っているのだから、このような悲劇を繰り返さないためにどのような防護体制を取り得るのかということが最重要の課題であることは、敢えて指摘するまでもないことであろう。言うまでもないことだが通り魔に遭遇してから、或いは目撃してから警察に通報したところで間に合わない。警察とは市民の命を守ってくれる存在ではない。事件が発生してから、捜査をしたり、容疑者を逮捕したり、事件の処理をすることが、基本的には警察の仕事である。警察がいざという時に備えて警護をする対象は政治家と皇族のみである。また現実的に全ての幼稚園や小中学校の登下校路、スクールバスの乗り場などに警察官を配備して通り魔事件の発生に備えるということは不可能であろう。
自分の命や身近な子供たちの命は、我々市民が危機意識を持って守っていかなければならないものである。私の個人的な意見であるが、子供を保護する立場にある者は、通り魔事件のような万が一のケースに備えて犯人を一撃で気絶させたり、排除するような武器を携帯すべきであると思う。さすがに今の日本で一般市民が拳銃を持つことには無理があるであろうが、スタンガンであるとか目潰しのスプレーなどは所持すべきなのではなかろうか。もちろん素人の人間にそのような装備を使いこなせるかどうかということや、誤使用などの事故で子供や回りの人間に危害を加える可能性もあるので、簡単に認められるものでないことは当然であるが、そこは様々な議論や検討が必要とされるであろう。というよりもこのような事件が発生して取り組むべき最優先、最重要の議論とはそれだけではないのか。これがヨーロッパ諸国やアメリカであれば恐らくはそのための法整備なり、何らかの具体的な対策が取られるか、或いは既に取られている防護体制にどのような不備や欠陥があったのかということが真っ先に議論されることになると思われる。何も私は欧米諸国が進んでいて立派だなどと言いたい訳ではないが、それが当たり前のことではないのか。ところが日本では、どういう訳かそうはならないのである。それで必然的にはこのような悲劇が何度も繰り返されることとなる。日本では政治や報道が本来なすべき議論を避けて、死にたいなら一人で死ぬべき発言が妥当かどうかなどというような、極めて情緒的で不毛な論争が過熱化する。常に議論の対象が問題の本質からずれていて、どうでもよいなどといえば語弊があるかも知れないが、情緒的で感情的な論争ばかりに時間と労力を注いで、本当に直視しなければならないことからは目を逸らせるのである。そしてそれは根底においては戦争であるとか、日本の国防をどう考えるのかということにも通じる全体的な精神性であると考えられる。突き詰めればであるが、日本のこの決して問題を解決させないで、曖昧不明瞭なままに社会の不条理性を温存させながら、あくまでも情緒的にぐるぐると論じ続ける精神性というものは天皇制に行き着くのだと考えられる。といっても私は天皇制自体を批判するつもりはない。そうではなくて、つまり天皇制に問題があるということではなくて、日本では自民党だけでなく実は政界全体が、報道機関も含めてであるが、天皇制が生み出す漠とした、もやもやとした空気感を政治利用しているところに根本的な悪因があるのではないのかという気がする。