龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

天皇即位に際して思うこと

カレンダーが赤字になっていないので10月に入ってからも暫くは気付かなかったが、22日は、天皇即位礼で休日だったんだな。しかし10月は消費税も10%に上がり、台風被害の影響もあって売上も落ち込んでいるので、休んでばかりもいられないと営業日にしようかどうしようかと迷っていたのだが、得意先に電話で聞いて見るとどこも休みにするというので、世間に合わせるように私の会社も休日にしたのであった。日本は一昔前はワーカーホリックなどと言われていたのに、今では景気も悪いのに休日ばかりではないか。これも外圧によるものであろうか。働かないで何をせよというのだ。

そんなことよりも愛知県の大村知事は即位礼の儀式に参列するのであろうか。あのような低劣なイデオロギーに凝り固まった人間に何を言っても同じであろうが、日本人全体には休日が多いのであればその余暇の時間を社会や政治の真相を追及する思索にもっと費やしてほしいと私は思う。そうでなければ大村知事のような政治家や反日活動ばかりにかまけている政党はいつまでも日本で幅を利かせ続けることになるであろう。そういうことで改めて問い質したいことは、国王を擁する国は日本だけではなくて世界に複数、存在する。ヨーロッパではイギリス、ベルギー、オランダ、スペインなどでアジア地域においては、日本以外にはタイ、マレーシア、ブータンなどが君主制国家である。そこで聞きたいことは、日本以外の君主制国家で愛知県のトリエンナーレで展示されたような国王の肖像写真を火をつけて燃やすような冒涜的な作品を芸術と称して、公費を拠出したり保護、宣伝するような国が一カ国でも存在するであろうか。取材して見ればわかるであろう。但し日本の左派のマスコミは、自分たちに都合の良い回答を引き出すヤラセ報道が常態化しているので、作られた取材結果そのものが大衆に向けての洗脳工作になっていて一向に信用できないものではあるが。普通に常識的に考えれば、トリエンナーレのような作品を君主制国家が国家的に容認するようなことは有り得ないことである。それではその日本の特殊性の要因は一体、何であると大村知事は考えるのであろうか。日本だけが表現の自由を守っている民主的な国家であるとでも主張するのか。断っておくが先に列挙した君主制国家は全て絶対君主制ではなく、立憲君主制である。立憲と言うことは国王の権力が、憲法によって規制されているということだ。日本以外の君主制国家は表面上は立憲を標榜していても、実質的には表現の自由が認められていない国王独裁の政治スタイルであるということなのか。21世紀の日本は、19世紀までの鎖国体制ではなくて国際的なグローバリズムによる国際交流の渦中にあることは事実である。よってその日本的な差異の明確な正当性の根拠が、大村知事の口から全ての国民に対して納得できるような言葉で説明され得ないのであれば、それは単に外圧に流されたり迎合することによって、政治的な安定性を維持しようとしている卑怯な政治手法を証明しているだけである。もう一点関連して言えば、これまでの大村知事の主張は、芸術作品に対してこれはダメで、これは良いなどというような姿勢を示すことはできないなどと、表現の自由を援用することだけであった。表現の自由を守ろうとする姿勢が間違っているとは言わない。しかしそれは一つの法律である。果たして一つの法のみにしがみつくように援用し続けることが、本来の政治家の姿なのであろうか。私に言わせればそれは政治家と言うよりも、法廷における被告人の弁明のように見えるものである。何らかの罪を問われている被告人は、自らを正当化したり罪を軽減させるためには、正当防衛なり心神耗弱なり何らかの法を訴え続けることが常套手段であるし、またそれ以外に道はない。しかし政治家と言う存在は、本質的には裁判官でもなければ被告人でもないはずである。政治家とは立法行為、つまり法律を作る立場であるが、自らのイデオロギーや政治的保身のために一つの法律を念仏のように唱え続ける姿勢自体が、どこかで本道から逸れてしまっているものと見れるものである。政治家の仕事とは一つの法を援用するのではなくて、広い視点から国民感情や社会状況等、総合的に勘案した結果を国民にわかりやすく自らの言葉で説明することではないのか。そういう基本的なことが大村知事には理解できていないのだと考えられる。大村知事には明らかに知事としての資質はない。リコールの対象となるべきだ。