生きること、書くこと 106
政界の世襲問題とは、結局のところ“政治の質”をどう考えるかということである。世襲と政治家個人の
能力はもちろん別である。世襲であるから政治家として優秀ではないという理由にはならない。しかし世
襲議員には世襲特有の感性や、壁があって当然である。
親や祖父の地盤を引き継ぎ、地元の人々に担ぎ上げられてやっと当選したような人間が、しがらみや特定
の利害関係を超越した高度な国家観や、時代を俯瞰し、遠く将来を見据えた視点で日本を導いてゆくこと
が出来るであろうか。幼少時代を執事に囲まれて育った人間に、一家心中へと追い込まれる人々の苦しみ
が本当にわかると言えるか。
口で尤もらしいことを言うことは、才能や品性とは関係なく場慣れすれば誰でも出来ることである。しか
し人間の中身そのものはそう簡単に変わるものではない。世襲は選挙における圧倒的な有利さに比べて、
さほど“中身”を保証するものでないことは今の政治家を見ればよくわかるはずである。
そもそも自民党の政治とは、大企業や各エスタブリッシュ層に深く結びつきながら口利きで利害関係者の
子弟の就職や結婚の世話をするような打算的な“人間関係”を本質とするものではないのか。そのような
政治家に真の改革など出来るわけがない。国民にとっての真の改革は、彼らにとって既得権と秩序を破壊
する犯罪的な革命を意味するであろうから期待する方が間違っている。庶民の生活の苦しみなど口ではど
のように説明しようと、彼らの皮膚感覚にはまったくないし、本音では何とも思っていないはずである。
“職業選択の自由”などと恥ずかしげもなく、よくもふざけたことが言えるものだ。やはり馬鹿は馬鹿
だ。そもそも職業選択の自由とは、能力があるにも関わらず経済的な理由や出自、性別などによって就職
差別されることを防ぐための“弱者”の視点の法律であるはずだ。政治家という職業への圧倒的に有利な
境遇の人間が、それも立法府の大臣が自己弁護のために援用する法律ではないことがわからない時点で、
既に政治家として失格である。
私は党ごとに世襲議員比率を設けるべきであると主張する。せいぜい3割ぐらいでよいのではないであろ
うか。比率制限を設定すれば、世襲であってもより優秀な人材が厳選されることになるし、世襲以外の一
般の人々にも政界への道が広く解放されることになり、国益に適うものであると考える。世襲という有利
なスタート地点にいる人は、その3割以内に党からふるいをかけられた上で選挙によってさらに国民の信
任を得ればよいのである。そのような方法であれば世襲議員は何ら恥じるものでないばかりか、国民の尊
敬に値する政治家になれるであろう。国民の政治離れも改善してゆくのではないか。