龍のひげ’s blog

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俳句の迷い

俳句というものが、季語が必要であるという程度の知識だけで17音の短い詩をいくつか作ってはみたものの私は今、迷いの中にある。早くも行き詰まってしまった。
俳句の表現というものがよくわからないのだ。何がわからないかといえば、写実でなければならないのかということだ。何かの風景や物を見て心に感じた印象を伝えるということであれば、先ずその何かの対象に現実的に出会わなければならない。しかし印象というものは、リアルタイムな現実の中だけにあるのではない。記憶として心象に刻まれたものの方が、目の前の現実よりも強い場合が多い。俳句という表現が臨場感に縛られるのであれば、心象風景を詠ってはならないということになる。そうであれば俳句は非常に限定された表現技法ということになり、極端に言えば生活や人生そのものを俳句に捧げなければならないということになる。
松尾芭蕉種田山頭火のように一期一会の出会いを求めて漂白の旅に出なければならない。俳句を作ることは行動的なライフスタイルの中から心ではなく現実そのものに分け入る、一つの生き方だと言えるのかも知れない。もちろん私でも、仕事が休みのフリーの日に一人で奈良や京都をうろついて出会った風物を歌に詠むような、スケールの小さな芭蕉山頭火の真似事が出来ないわけではない。そのような休日の過ごし方は楽しいかもしれない。しかしそれが自分に合った表現かどうか、言い換えれば修行になるかどうかは別問題だ。要するに自分と世界との関係性をどのように考えるかということに尽きるのだと思う。
俳句の世界観はどこか乾いている。即物的であるようにも思える。即物を写生することによって自らの心の動きを表現する。しかし私の表現は世界を一旦、魂に飲み込んで、そこから言葉の力によって外部へと解き放とうとする衝動にかられている。だからそういう意味では私には本当の出会いがないのである。具体的に私が作った句で説明すると以下のようになるであろう。
蝶は春の季語である。春の季節に蝶が何百万匹、飛んでいようとも今この瞬間に出会うのは名前はなくとも目の前の蝶、一匹だけである。その一匹は宇宙で代替不可能な生命である。その一匹との邂逅と印象を詠うのが俳句であるとすれば、
 
紋白蝶 命凍らせ 雪になり
 
の句において、私は目の前の雪を眺めているが、紋白蝶は見ていない。現実的に雪と紋白蝶を同時に見ることは有り得ない。紋白蝶は雪の比喩である。自由詩の表現では許されるかも知れないが、現実に見ていない紋白蝶が頭に出てくることは失敗作というよりそもそも俳句の世界観から外れているのである。誰かに指摘された訳ではないし、俳句の入門書を読んだわけでもないが、自分で勝手にそう考えているだけである。同様に
 
虚空から 蝶現れて 地に落ちる
 
においても、私は生命というものはどこからともなくこの世に現れて、死んだ時にはその亡骸だけが残る無常や不可思議さを詠んだつもりであるが、そのような文脈から見れば、蝶という存在はまったく無関係である。私は唯一無二の蝶を見ているわけではない。よってこれも俳句の世界ではない。
 
蝶一頭 標本箱から 飛び立てり
 
も幻想としての心象風景だから、俳句として失格ということになる。なぜなら詩的なイメージだけで迫真的な臨場感がないからである。
一方、俳句の世界観に適った句もあるように思う。
 
黄水仙 忘れた悲しみ 軒下に
 
の句は、軒下に咲いている黄水仙を見て忘れていた悲しみを思い出したということであるが、誰の家の軒下でいつ何時ということは問われない。また実際に私がその黄水仙を見たかどうかも最終的には問題とならない。なぜならここで語られている黄水仙はそれそのものを指しているからである。
 
春の風 雲を払いて 星ひとつ
桜雨 運河の鯉を 覗く人
 
などの句も、星や鯉を覗いている人が固有の存在であり一般化できるものでないから、とりあえず俳句の範疇に仲間入り出来るのかも知れない。
しかしである。私が本当に表現したい世界観というものは、プラトンイデアではないがどちらかというと観念的なものであり現実と神秘の中間に位置する心象風景なのである。蝶のイメージについて思念していて、ふと窓の外を見遣ると本当に現実の蝶が舞っていた。もしかすると私の心が呼び寄せたのかも知れない。しかし蝶そのものは私の心とはまったく無関係に存在している実在の生命であり、私は幻を見ているわけではない。
もちろん実際に蝶が舞っているのであればそれは出会いなのであるが、私にとってはその出会いという現実そのものの面白さや不可思議よりも、その現実と関連する自分の心や認識の方に価値があるのである。客観的、第三者的にどちらが正しいかという問題ではない。私にとってはその現実と神秘の境界線上で心と言葉を純化させてゆくという道であり修行である。大それた事を言えば、それが社会制度の改善や人類の幸福に寄与できるかどうかを探る道でもある。しかしそれは俳句の世界には相容れない思想だと思えるから、自分は間違った方法を選んでいるような気がする。自由詩を書くべきかも知れない。一方で俳句の世界も、もっともっと自由であってよいのであり型にはまった見方でなく何よりも自分の世界を表現することに意義があるようにも思える。ただし私は最近、俳句の伝統的な乾いた表現手法というか、自分の心から世界を突き放すかの創作行為に小さな喜びをも感じ始めてきているのでどちらの方向に流されてゆくのか自分でもよくわからない。下手なりにも俳句を作っていれば、季節の移り変わりに敏感になり勉強になることも多い。
迷いと気付きの中で私の春は深まってゆく。