龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

俳句と私

秋の陽が 貧者の善を 美に染める
秋の陽射しで私が思い浮かべる光景は、現実生活のものではなく何故かミレーの絵の『落穂拾い』である。と言っても実は私はそれほど画家のミレーも『落穂拾い』の絵も気に入っているわけではない。過去にミレー展を見に行った時に、『落穂拾い』の絵の前は大変な人だかりであったことを覚えている程度だ。貧しい農婦を描いた『落穂拾い』の絵は、元々農耕民族であった日本人の情感に深く訴える何かがあるのかも知れないがしかしこれほどまでには、と当時はその異常なほどの人気ぶりを不可解に考えていたものだ。ところがその数年後に自分が秋の陽射しをテーマに俳句を作ろうとすると、どういうわけか『落穂拾い』の絵がぱっと頭に思い浮かんでしまう。やはり私もどうしようもなく、悲しいほどに日本人なのである。あるいは農耕民族としてではなく、日本人とフランス人の感性や美意識はどこか共通する部分があるのかも知れない。それが何なのか具体的に説明することはできないが。何せ私は一度もフランスに行ったこともなければ、日本にフランス人の知人がいるわけでもないのだから仕方ない。しかし、あえて言うなら日本人とフランス人は死生観が近いのではないかと、フランス人の絵や映画を見ていて思うこともある。
さて私の俳句についてであるが、このように視覚(絵画)的なイメージ、印象を直接、言語に変換するような手法は、俳句としては邪道なような気がしないでもない。しかし、そういうことは私はあまり気にしていない。いや正確に言うなら、そこまで気にすべきレベルに私は達していない。私の作る俳句は下手である。その程度のことを自覚できる見識は私には備わっている。だから自分でも今一だなあ、と思いながらもあまり細かなことには拘らないようにしている。下手なりにも、ともかく作って自分の魂から切り離し、投げ捨てるように投稿している。まあこれも、一つの修行みたいなものだ。だが、気にかけている部分もある。俳句は五・七・五の17音のみで森羅万象を表現する詩の形式である。字数に制限があるので、限られた言葉の選択から余韻を生み出さなければならない。俳句とは余韻を切り離して成り立ち得ない、言葉の芸術であるということだけはわかってきた。余韻を持たせる技法の一つに語尾の選択がある。(と、偉そうに解説しているが、私は俳句の作り方のような類の本は一冊どころか一行も読んでいないので、私が勝手にそう考えているだけのことであることは先にお断りしておかなければならないであろう。)語尾の選択によって、その句の印象が閉じるか、あるいは開くのである。余韻を持たせるためには、当然、開かなければならない。私は当初
秋の陽が 貧者の善を 美に染める、の末尾を、美に染め“て”にしようかと迷っていた。ての方が句が微妙に開く。染め“る”と断定的に言い切ってしまえば、どことなく独善的で偏狭な感じに思えなくもない。自己完結していて余韻が閉ざされる。しかし私は結局、染め“る”を選択した。その理由を説明すると、私がこの句で伝えたかった句意とその句意を表現し切れない技量の低さも関連してくることになる。私は、秋の陽射し“だけ”が、貧者の善を美に染める、と言いたかったのだ。裏返せば、今の世の中には貧者の善行を、貧しくとも清く正しく生きる姿勢を奨励する道徳や規範が“何もない”ということである。そのような道徳や規範が枯渇しているからこそ、反対に日本という国全体が世知辛くも荒み、物心両面に亘って貧しくなってきたのではないかという社会批判の句なのである。だから私の信念の表明でもあるわけだから、染め“て”ではなく、染め“る”なのである。もしそれが独善的だと言われれば、これはそういう句だからと答える他ない。もっと言えば、
秋の陽よ 貧者の善を 美に染めよ、にしようとまで考えていた。そうするつもりであった。ところが、ノートに書いて眺めていると落ち着かなくも、気持ち悪くなってきた。そこまでエモーショナルな表現は自分の気持ちからは、少し遊離しているのである。確かに今の社会体制に対する憤りはあるが、そこまで自分は正義感の強い人間ではないのだ。その句の中に本当の私はいない。だからそういうものは公開したくはない。結局、
秋の陽が 貧者の善を 美に染める
が、一番本当の私に近いのである。もちろん、仮にそこに多少の嘘や虚飾があったとしても、その嘘や虚飾自体に私が許容するところの私自身が内在している。俳句だけでなく、全ての芸術表現は自分が何者であるか、どういう人間であるのかという問いかけの原点から離れられないのであろう。社会批判であってもベクトルは外部や権力に向かうだけでなく、芸術性という要素が加味されれば必ず自分自身に立ち戻らなければならない運命にある。俳句について言えば、余韻が他者との交流の窓のようにも思える。美に染める、と断定してしまえば、そこに何がしかの私の信念はあっても交流の窓をぴしゃりと閉めてしまうかの気配も微かに漂う。そこには余人の近寄り難さがある。要するに、美に染める、と表現することは、私は孤独な人間であると告白していることと同意である。しかしそこに本当の自分が存在するのであれば私は目を背けることはできない。私は、その地点からしか歩めないからだ。自分に嘘をつけば世界が歪む。自分を正しく見ることの出来ない者に、他者を正しく批判することは出来ない。俳句の末尾の一文字にどうしようもなく自分自身が立ち現れる。
私は誰にも嘘をつけない。世界が私に嘘をつく。