龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

悪魔論 2

すなわち要するに、悪魔とは地上世界における物質原理に他ならない。人間を物質的な価値観に縛り付ける道徳であるとも言えよう。悪魔とは人間を堕落させるために存在するのではなく、人類の進化を妨害する者である。この違いは極めて重要だと考えられる。なぜなら悪魔とは一般的には一人の人間を、つまりは誰か個人を堕落させる悪として語られたり、描かれたりすることがほとんどであるからだ。アメリカのハリウッド映画で作られた『エクソシスト』や『オーメン』などがその典型的なパターンである。個人に憑依する超常的な存在は、私に言わせれば、悪魔ではなく悪霊である。人類の進化を妨害するために地上世界を監視する悪魔にとって、誰か一人の個人を苦しめることには何の意味もないと思われるからだ。但し前回も述べたようにイエス・キリスト仏陀のように人間存在の枠組みを変化させる覚者は例外である。ここに天使と悪魔、あるいは神と悪魔の対立の構図がある。それではなぜ悪魔はその本性を大衆に隠されて、悪霊のように流布されることになるのだろうか。私が考えるに、悪魔の物質原理が象徴として地上世界の権力や資本主義と政治的に結びつくと、大衆統治の上で悪魔の使命や本性を隠蔽し、あたかも罪なき個人を苦しめる悪霊のようにイメージ操作する必要性が生じるからだと思われる。要するに悪魔とは現代的に見れば、グローバルな覇権主義や映画の興行収入向上のために活躍してもらうために、一部の人間によって都合よく作り変えられたフィクションである。イエス仏陀を苦しめた正真正銘の本物の悪魔は確かに存在するのであろうが、99.9%は抑圧的な社会構造の中で、大衆が悪魔の化けの皮を引き剥ぎ、結束して体制批判に向かう事態を避けるために、権力側が一個人の問題として感得させる必要性の上で巧妙に練り上げられたイメージであり、支配の手段である。日本の平安時代の妖怪なども同様に、当時の密教僧は天皇や貴族に取り入る上で呪術的な調伏の対象をしたことと、皇族や貴族自身も政敵を呪ったり妖怪を調伏する特別な力を権力内部に取り込もうとしたことから生み出された共同幻影のようなものであったであろう。それが鎌倉時代になって平氏や源氏などの武士の源流が発生したことから、権力は呪術から暴力へと移行してゆくこととなったのである。だから悪魔と一口に言っても、そのほとんどは権力と民衆の間の関係性に行き着く問題となり、本物の悪魔を分離して捉えることは非常に難しいと言える。現代の悪魔観は、中世ヨーロッパにおける魔女狩りが出発点になっているように思える。キリスト教会が絶対的な権力を保持している時代が数世紀の間も続いたのである。誰かから魔女の可能性があるとして告げ口され、教会が魔女であると看做せば、その人間は容赦なく焚刑に処せられた。魔女狩りで何万人もの人間が殺されたであろうが、本物の悪魔に通じていた者などほとんどいなかったであろう。但し、教会の権力に対抗するために悪魔を崇拝する思想はあったであろうと想像される。だから要するに魔女狩りとは、単に思想弾圧のための虐殺であったと言えるのだ。冒頭で私は、悪魔とは物質原理であると述べたが、物質原理とは科学崇拝であると言い換えることもできる。一方に宗教の迷妄があって、その迷妄の弾圧に対抗する如くある時代に、ニュートンガリレオなどが革新的な科学を打ち立てた。そしてキリスト教の絶対的な権力から身を守るために、秘密裏に団結する組織の必要性が生じた。ダン・ブラウンの小説『天使と悪魔』にも書かれていたが、フリーメイソンの発生はそういう時代的な背景があったようである。フリーメイソンが18世紀初頭に、孤立した島国であったためか魔女狩りの被害がほとんどなかったイギリスの地で生まれたことと、18世紀中盤から産業革命がイギリスから始まり欧州に波及したことは、フリーメイソンの視点で見れば歴史的な必然と言えるであろう。今日でも一部のキリスト教関係者は激しくフリーメイソンを敵視しているようであるが、魔女狩りというキリスト教の暗黒時代を科学の力で大衆の迷妄を切り開き、目を見開かせてきたことは非常に功績が大きいと言えることは間違いない。フリーメイソンの象徴である目の図案は、そういう歴史的な経緯から来ているのだと私は考えている。確かに300年前のフリーメイソン誕生時には、人類史的に見ても大きな意義があったことは否定できないが、戦争の時代であった20世紀とこれからの21世紀にフリーメイソンは世界にとって有用な組織であると言えるのであろうか。次回に続く。続かないかも知れない。なぜならこれから勉強するからである。それにしても、もう年末で気分的にもせわしない。良いお年を。
飛行機も 速く飛び去る 師走かな。