龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

クリスマスの悪魔論

12月25日のクリスマスの夜は、元妻と息子が住むマンションで過ごした。天皇誕生日の23日とイブの24日は、息子は同年齢の従兄弟がいる元妻の妹の家に泊まりに行っていたので、25日になった。難波のデパートでクリスマスケーキとスパークリングワインを買って、夕方マンションに着くと、元妻は寿司や、フライドチキン、ピザなどをテーブルに並べているところであった。思えば、これまで家族3人でクリスマスを祝ったことなど一度もなかった。息子が5歳ぐらいの時には、私はそのマンションを出て別居を始め、それから離婚の調停や裁判やら、それらに伴う弁護士探しに奔走し、年幼い息子は私と元妻の間で精神的にストレスを抱え込んでいたからだろうか、小学校2年生になった春にチックを発症し、口が動いて舌を噛んだ所から菌が全身に回って入院したり、退院した後も、そのチックを治すためにセラピーや民間療法する施術所を探し回っているようなことばかりしていたので、とてもじゃないがクリスマスを祝うような気分にはなれなかったのだ。それが離婚して2年半も経ってから、こうして平和にクリスマスの一夜を3人で過ごすとは皮肉なものである。そう言えば、私が元妻と結婚式を挙げた日は、1999年12月25日の仏滅であった。とあるホテルのチャペルで執り行ったのである。私の母親は何で、仏滅の日に式をするのかとぶつぶつ煩く文句を言い続けたが、私は別にクリスマスにも仏滅にも何のこだわりも抵抗もなかったのだが、その日しか空いていなかったから仕方なかったのである。私の母の予感通り、仏滅が災いしたのかどうかは分からないが、離婚することと相成った。離婚と親権を争っていた当時は、本当に大変であった。今から思えば、ちょっとした地獄、そう、現世のプチ地獄を彷徨っているような境涯にあった。ただ私は、地獄であろうと何であろうと、倣岸不遜にも自分は特別な人間であると心のどこかで信じ続けていたし、世間一般の秩序感覚を自分の精神性よりも明らかに低位に見下していたからこそ、苦境を乗り越えてこれたのだと思う。プチ地獄の中で、世間同様のと言えば憎まれるかも知れないが、世間が無意識に期待するような地獄の住人を演じていたのでは、私はとうの昔に生きる意味を見失っていたことであろう。私に言わせれば世間に埋没することが地獄そのものなのである。ともかくクリスマスと言っても、正直なところ何の感慨もない。クリスマスケーキに灯されたキャンドルライトを虚ろに見つめる私の瞳は、キリスト教というよりは、どちらかと言えば、火を崇拝するゾロアスター教徒に近い。私の前世は仏教の修行僧で、その前の前世は古代ペルシャゾロアスター教徒だったような気がする。揺らめく炎をじっと見つめていると何故かしらそのように思えてくるのだ。私の魂はいつの時代も求道者としてこの地上に存在したのであろう。ゾロアスター教の世界観とは善神と悪神の戦いである。火は星や太陽と共に善神の象徴である。捻くれものの私は、クリスマスの日に小さな火を見つめながら悪神であるアーリマン、キリスト教的に言えば悪魔の存在について心を寄せるように想像するのであった。私は自分で言うのも何だが、健全で清らかな人間である。だからこそ時には、地獄や悪魔を招くこともある。人生において、誰しも地獄の悪魔に魅入られたように思える不遇の時はあるであろうが、自らの経験で言えば、地獄や悪魔を自らの精神の内部で外的世界との関連において相対化し得た時に、その境涯を脱することが出来る。大切なことは、自分にも世界にも絶対的なものなど何もないという真理を理解することなのだ。宇宙は無常なのである。唯一、神のみが絶対的な存在であると言えるのであろうが、その神ですら相対的な物質世界を創造し、その変転を観察しなければ、自らの絶対的な神性を再確認することが出来ないのであろう。我々人間は神ではないから、世界そのものを創造することは出来ないが、自らの境涯を思考や感情を超越し相対化して意識することは出来る。もちろん多少の知性は必要とされるが、それが出来れば、少なくとも個人の人生からは悪魔は立ち去ってゆくことであろう。なぜなら悪魔とは、恐らく99.9%は世相が生み出した共同幻影に対する個人的な反応であると思えるからだ。時代や地域に共有された抑圧的な社会構造に個人の悲しみ、憎しみなどの強烈な負の思考や感情が照射されると、そこに悪魔が立ち現れるように見える。しかし多くの人はそのメカニズムが理解できないから、自らが生み出した悪魔の術中にまんまと陥り、人生が翻弄されることになるのだと思われる。平安時代の妖怪も、中世ヨーロッパの修道院尼僧に取り付いたと言われる悪魔も皆、同じだと思われる。要するに基本的に悪魔とは、自分と世界との相対的な関係性を相対化できずに、自らの苦しみや不幸の原因を外部化し、擬人化して絶対視してしまうことから生み出される妄念というか妄想だと思われる。いつの時代も悪魔は社会と個人の間に姿を変えて存在し続けるのである。それでは人間の妄想ではない、本物の悪魔は存在しないのかということになれば、私は存在すると思う。ではその人間世界における0.1%の正真正銘の悪魔とは、その正体は一体いかなるものであろうか。私は悪魔とは、イエス・キリスト仏陀のように人間の分限を超えて進化しつつ人類全体を新たな地平へ導こうとする計画を妨害し、あくまでも人間を人間の分限に押し止めようする邪悪な力であると考える。よって人間の範疇を超越しようとする者には必ず悪魔がその道を塞ぐように登場することになる。そして修行者は一旦、魔境に陥ることとなる。これはキリスト教であっても、仏教などの禅宗であっても、宗派や洋の東西を問わず共通ではないかと思う。私自身、20歳代の前半に悪魔体験としか言えないような体験をしたことがある。具体的にどういうものかはとても簡単には説明できないが、とにかく尋常ではない異空間を私は潜り抜けてきたのである。そしてその魔界を脱して私は、どこまでも凡庸でありながら同時に極めて特別な存在へと生まれ変わったのだと思われる。もちろん誰かに何かを自慢したり、証明できるような体験では有り得ない。それは吹聴とは対極に、沈黙せざるを得ない領域の問題であるといえよう。また下手に口外すれば間違いなく狂人扱いされるから恐ろしくて言えたものではない。しかしその自己体験から敢えて言及すれば、悪魔は存在するのである。そして悪魔は人間界を、物欲や虚栄心、支配や搾取などの物質的な価値観から超越しないようにと見張り続けるのだ。それが悪魔の正体である。そしてこの悪魔の思想が、グローバルな大資本の論理と結びつきやすいことは言うまでもないことであろう。世間の常識を打ち壊すようで申し訳ないが、悪魔は本当は資本主義と極めて相性が良いのである。悪魔と資本主義の融合は、大衆をモノ化する政治的な操作へと先鋭化されてゆくこととなる。
話しが危険になってきて、少し怖くなってきたので様子を見ながら次回に続ける。続かないかも知れない。あるいはこの記事を削除するかも知れない。何事かを表現することはとても恐ろしい。能天気な人々がとてもうらやましい。