龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

我が実存主義哲学

皆さんはどのようにお感じになられるのであろうか。
なんて聞かれても、答えようがないよな。
世の中は 斯くありなんと 思うのみ、だ。私自身もそうなんだから。だからどうしようとか、どうすべきだなどと御大層なお題目を唱えているつもりはない。このように現実世界はどうしようもない所だけど、自分の心の中だけは、その認識の在り方だけは濁世の政治や権力に合わせて歪められないように守っていこうと思いが根底にある。それは攻撃と言うよりは(1人で社会の欺瞞や嘘を攻撃したって勝てる訳がないんだから。狂人扱いされるだけのことだ。)、自分の魂を守るためのささやかな抵抗である。消極的で理性的なレジスタンスだ。レジスタンスなどと言えばまたちょっと大袈裟だけど、まあ独り言みたいなもんだな。だから何も答えてくれなくてもいいのです。それぞれが新聞やTVの権威化された情報とは本質的に違う、それでいて一人の人間が生きて行く上で大切な何かを心の内で少しでも感じ取ってくれれば、それが結果的には日本の社会変革の第一歩であると私は本気で考えている。こういう風なことを言えば、その途端に政治性の原初の芽生えというか、偽善的な誘導が醸し出されているように感じられて、少しばかりの恥ずかしさと自己嫌悪を感じるのだけれど。私はナイーブな人間である。ナイーブだからこそ社会と言うものを、その本性を奥底まで見極めて、自分と言う存在を理知的に相対化させて把握しないことには、元々動物的な強さを持っていないだけに行き着くところは不安なんだな。生存の不安だ。カミュサルトルかは知らないけれど。
私の根底には不安がある。世界に対する恐怖とも言い換え得る不安だ。その不安に立ち向かい克服するためには対象(世界=社会構造)を自分との関係性において絶えず分析する必要性がある。傍目にはそこには何か神経症的な傾向が感じられるのかも知れないが、私にとっては自分自身を守るためなのだから、まあ言ってみれば正当防衛みたいなものである。魂の個別的自衛権だ。
夏場だからと言う訳ではないが、たとえば幽霊という存在はどういう理由で現れているにせよ、相対する人間に理知的に分析されてしまえばその瞬間に存在する根拠を失ってしまうのだよ。それが単に怖がっているだけでは幽霊は中々消えてはくれないし、幽霊でないものまで幽霊に見えてしまう。人生における苦悩というものも実は幽霊のような存在なのである。そして苦悩の正体は本当は前世や脳の働きにあるのではなく、社会構造の中にこそ潜んでいるものなのだ(と私は思う。)なぜなら苦悩とは現世の相対性という比較の中から立ち現われてくる幽霊と言う名の幻覚だからだ。人間は本当は誰もが幸福なのである。その本来の幸福感を奪って呪われたような錯覚を与えている正体は、その時代に適合した政治や権力の歪みや虚構性なのだ。西洋の悪魔も同じだと私は思う。エクソシストが悪魔に向かって「お前の名を名乗れ。」と言うでしょう。あれは悪魔に自分の正体を名乗らせることが、相手を対象化し分析する上での第一歩なのである。そして分析されつくしてしまえば悪魔は取り付いた人間から退散せざるを得なくなるから、悪知恵を働かせてエクソシストを誑かせたり、誘導したり、脅かしたりする。これは社会構造に潜む政治的な悪魔も実はまったく同様なのである。言うまでもないことだが新聞やTVなども悪魔の仲間なのだ。
生きると言うことは人生において個的に幽霊や悪魔と立ち向かうということである。そして政治や報道の悪魔的な嘘や虚構性を見極める目を持ち得た時に、視野が拡がって確かに自己の不安や苦悩は消滅するのである。だからそういう意味では私は(あまり認めたくはないけれど)窮極的な利己主義者なのだ。そうです、私は利己主義者である。たまに誤解されて正義感が強い人間のように思われることもあるが、正義感と言うものとは少し意味合いが異なる。というよりも正直に言えば、私は何が正義なのかよくわからない。よって正義感の持ちようがないのである。敢えて言えば電車の中でお年寄りや妊婦に席を譲る程度の通俗的なもの以上に高等な正義の概念などほとんど理解できていない。私にとっては自己の精神内部が不安や苦悩に蝕まれているか、それとも安らかであるか、その二者択一が全てであるとさえ言えるのである。倫理の基準が自分自身にあるので利己主義者であると自己分析することができる。それでも自分で言うのも何であるが、私は自分でそれが客観的に認識できているからまだ救われている部分はあるとは思う。それは弱さが強さに、そして利己が利他に自然と自律的に変換する境界の感覚が自分の内部にあるかどうかだという気がする。