龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

我が人生の芸術論

何も言いたくはないが、黙ってばかりもいられないということが、私の表現上の基本的な立ち位置というかスタンスである。主張のための主張や、沈黙のための沈黙には堕したくはないという気持ちもあるが、そこには表現というものの日常を離れた突発性とか、何かしら衝動的な芸術への志向が自己省察されるものである。そう言う意味では私は、自分ではあまり意識はしていないが、元々芸術的な人間なのである。この芸術性なる要素が、これまでの人生において私を他者と隔絶させ、理解され難い人間として孤独に陥らざるを得ない根本的な原因となってきた一つの個性であると言えるのであろうと思う。岡本太郎さんの有名な言葉に「芸術は爆発だ」というものがあるが、その意味するところが私にはよく理解できるような気がする。芸術とは決してコントロール出来るものではなくて、それ自体が一つの自律的な生命で、精神の内部で、ある臨界点に達した時に爆発(誕生)する衝動的な何かなのである。ところがその芸術衝動が、絵画とか彫刻などに向かい昇華される時には、そのレベルなりに自己完結するのであろうが、私のように思考とか意識に留まっている場合は話は別であり、そこには純粋な芸術性だけでなく、宗教とか哲学などの要因が無意識に混ざってきて、傍目にはたとえ私が沈黙しているだけであっても、何かしら危険人物のような趣きというか、気配が漂っているのではないかと推察されるものである。そもそも芸術性とは、日常生活における潤滑なコミュニケーションを促進するものでは有り得ないものであって、そこに宗教論や哲学的な洞察が加われば、はっきり言って一般的な市民生活の中においては、単に気難しいだけの変人であり、精神的な居場所が存在しないものである。そういうところに私という一人の人間の個性的な有り様とでも言うか、こういう言い方は本当はしたくはないのだが、生の悲しみのようなものがあったのだと思われる。だからという訳でもないが、唯一の芸術衝動の捌け口であるところの詩作や文章表現においても、本能的に私は独自性の高い価値や権威を求めるのではなくて、万人への「わかりやすさ」という共通基盤に寄り添おうとする傾向が高いのであろうと自己分析されるものである。元々私のように孤独性の強い精神(芸術志向とはそういうものであるが)は、その孤立した不安感ゆえに、わかりやすさという手段によって他者や世界の温もりを求めてしまうようである。極端に言えば、わかりやすい言葉や説明でもって、私は人間(大衆)世界への仲間入りが許されると無意識に考えてしまっているのである。しかしそれはどうも間違った錯覚であったことがようやくわかってきたように感じられるものである。確かにわかりやすさとは、コミュニケーションを円滑にさせる一つの道ではあるが、それと私という人間の本来的な居場所である孤独の境地とは別次元の問題であって、わかりやすい言葉で世界や他者と深くつながれるということには決してならないものである。もっと言えば、わかりやすさとは世間一般の商業主義的な価値観においては必ずしも求められてはいないものである。簡単なものをより難しく説明し、立派に見せることで、価値を発生させる操作が、我々社会の土台となる共通基盤であって、それゆえにこそその難しさを解体するところのわかりやすさの価値も相対的に生ずる仕組みになっているのである。私のように他者や世界との実存的な結び付きや融和を図るために、わかりやすさを追求するのであればその姿勢そのものでもって、図らずも私の特殊性をわかりやすく証明し、皮肉なことには一回転して世間から遊離せざるを得ない結果となるものである。よって結局は私は私でしか有り得ないのであって、どこにも逃げ場はないし、ごまかしようも(決してごまかすつもりはないが)ないものである。少し危険なことを言えば、これはこの世だけでなく、あの世というものがもしあるのであれば、そこにおいても同じような気もするものである。ただもう正直に言って、私も50歳という年齢になってしまっているので20代のように世界全体を敵にしたような苦悩や懊悩というものはまるでない。子供もいることであるし、特に離婚時において私が親権に固執して最終的に取得したことは、結局その当時の私にとっては幼かった息子との精神的な結びつきが、大げさではなく私とこの人間世界との唯一の架け橋であると思えたからであろう。繰り返すが、私はどこまでも私でしか有り得ない。それはどうしようもないことなのだ。年齢のせいなのか、今においても表現衝動はあるが、世間や世界からの遊離のような状態をわかりやすさの尺度で自己矯正しようとする意識も薄らいできているように感じられる。もしそのような気持ちが残存しているのであれば、それは私の性格的な弱さによるものであると言えるであろう。結局は世間や他人が私をどのような目で見て、どのように評価しようともどうでもいいことなのだから。ただまあ、自分で言うのも何だけれど、私は昔からユーモアのセンスだけは優れていたし、他者からもそのように(一流のユーモアセンスの持ち主であると)言われ続けてきた。敢えてわかりやすく噛み砕かなくとも、ユーモアの能力だけでも、一時的にではあれ世界と触れ合い、結びつくことはできるのである。今では私はそれで十分だと考えている。年齢のせいなのかも知れないが。