龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

日本の危機とシャーマニズム的思考

遅ればせながら、明けましておめでとうございます。記事の更新がしばらく滞っておりました。思う所、感じる所、表現したい事は、色々あるのですが、何と申しますか、その気になれませんでした。鬱であるとか、スランプだとかそういうことではありません。いや、そういうことも少しはあるのかも知れませんが、つまり、際どい内容について自分なりの言葉で表現するということは、それなりの精神的なエネルギーが備蓄されていないと難しいものであるようです。エネルギーが消費され、枯渇してくると、どうしても私的で個人的な問題に心のベクトルが固定化されてしまって、本来、自分が主張したいことを一つの文章として作成するだけの元気が出てこないものです。出てくるというよりも、正確には井戸水のように汲み上げるのではなくて、火山のマグマや溢れる泉のように自然と噴出してくるものでなければ、それは本来の「私の表現」ではないものです。今、私の表現と言いましたが、生意気なようですが、噴出してくる何かには私という媒体を通過はしますが、私以外のモノが混じっているように感じられます。それは一体、何なのでしょうか。果たして芸術衝動なのか、日本人全体の無意識に通じる政治的な声なのか、或いはある種の霊感や神秘世界との架け橋としての役割であるのか、それとも世の中全体の偏向を矯正しようとなす反骨的な反動、反抗心の現れに過ぎないものでありましょうか。正直なところ自分でもよくわからないのですが、ただこれまでの経験から出来得る限り客観的に自己判断するに、私であって私でないものは、私の表現の中に何割とまではいいませんが、少なくとも何パーセントかは含まれているように感じられるのです。その私というフィルターを濾過して出てくる、どこまでも猥雑で不純な私以外の純粋なエッセンスを大切に寄せ集めてそこに光を照射すれば、どのような化学反応が生じるのであろうか。もしかすれば誇大妄想と笑われるかも知れませんが、日本の危機を救い、暗黒の未来を変化させ得る反応が生まれるのではないだろうかと、誤解を恐れずに言えばそういう「実験」でもある訳です。私はどうしようもないほどに無知で無力な存在だが、その私をとことん虚しくさせて、私から無色透明な体液のように沁み出てくる何かには、日本と言う全体性の均衡を変化させる偉大なパワーが秘められている可能性があるのではないか。このようなことを言えば、どこか宗教的に聞こえるでしょうが、確かに私の表現意欲の根底には、誰かとのコミュニケーションのためではなく、自分を超えた存在に真摯に向き合い、問いかけ、コンタクトしようとする無意識のベクトルが備わっているようです。但し私には、どこか誰かの宗教者のようにその自分を超えた存在者を安易に神だと断定することが憚れるような気質もまた持ち合わせているので、本質的には宗教的でありながら、どこか既存の宗教やスピリチュアルな世界観と一定の心理的な距離感もあって、自分ながら私と言う人間は難しいというのか、理解され難いところがあります。宗教というよりは、どちらかと言えばシャーマニズムや呪術に近いものがあるのかも知れません。私は学者ではないので詳しい事はわかりませんが、シャーマニズムの起源とは自己の利益や幸福のために誰か特定の人間を呪ったりするような利己的な手段ではなくて、自分が属する共同体全体に利益をもたらす機会を呼び込むための技術というか思考様式であったのだと思います。たとえば狩りが成功するように壁に獲物を見事に仕留めた絵を描くという行為は、宗教が発生する前の、つまり国家が人民を統べる形態が誕生する前から存在した、共同体の構成員が生き延びるために必要であった儀式なのです。宗教は古代宗教であれ、国家の発生と深く関係しているように私には想像されます。
何が言いたいのかと言えば、今の時代の世界観、宗教観では、日本国内の話しではありませんが、たとえばイスラム原理主義であるとかイスラム国の出現やテロリズムの脅威で語られる神という存在はあまりも深く国家や戦争と深く結びついているゆえに危険極まりないものとなっております。ならキリスト教は平和な宗教かと言えば必ずしもそうとも言えないものです。なぜなら今のイスラム国の台頭にしてもそうですが、底流においてはキリスト教イスラム教の衝突が原因となっていると考えられるからです。アメリカは二度もイラクと戦争をしてイラク政府をアメリカの傀儡政治にすることには成功しましたが、イラクの国家的な土台であるイスラム教的価値観を欧米の自由主義体制に染め上げることは無理でした。分かりやすく言えば、イラクにディズニーランドやマクドナルド、スタバなどのアメリカ文化を移植することは不可能であったということです。その辺りの事情をアメリカが当初からきちんと見極めた上でイラクと戦争に突き進んだのかどうかは疑問です。イラクは、戦後の日本のようにアメリカの文化を従順に受け入れるどころか混乱の中でイスラム国のような、より一層危険なテロリスト集団を作り出す結果となっただけです。陰謀論にも関連することですが、キリスト教世界はキリスト教が引き継ぐ土台となったユダヤ教とは当然、親和性も高いものですがイスラム世界の価値観とはどこまでも仲が悪いと言う以上に決して融合し得ない対立軸です。そこにアメリカ的な覇権主義や資本主義の越境があれば戦争にならない方がおかしいとも言えるでしょう。そして日本という国はそれらの深刻な対立と無関係であるどころか、巻き込まれたり、標的にされる可能性と隣り合わせになっているものです。一方で日本の神様は金儲けのための道具でしかありません。金儲けの道具というよりも宗教そのものが金儲けであると見れます。そういう今日的な時代背景の中で一個人が、宗教であれスピリチュアルであれ神を語ることに何の意味があるのかということです。新年早々、不安を煽るようなことは言いたくはありませんが、今後の世界は戦争の様相、気配を帯びてくるものと思われます。平和を維持し続けることがより一層に難しくなる時代への幕開けが2015年であるようにも感じられます。私は個人的には神の存在を信ずる者でありますが、確かなことは神は地球上から戦争や争いを排除してくれることはありえないということです。むしろ人間とは、神を語ることによって戦争をし続ける生き物であるとも言えます。よって我々一個人は神を信じることや、神の力を頼ることではなくて宗教以前の原初のシャーマニズム的な世界観に立ち返っていく必要性があるように感じられるのです。そういう思考方法を選択する以外には今後、日本人が平穏無事に生きてゆくことは困難だと私には思われます。シャーマニズムの本質とはスピリチュアルにも通ずる所があるかも知れませんが、神が存在するのであれば、存在すると仮定すれば、神を外部化するのではなくて自分自身も神の一部であるとみなすことによって生命の危機を脱したり、地域や社会の安全を維持しようとなす不断の試みです。無力な一個人が凶暴な世界から身を守り、見えざる影響力を行使する唯一の回路です。迷信だと言われればそれまでですが、日本人が戦争の危機や陰謀の脅威に立ち向かうにはそのような能力を高めていく以外に道はないのではないでしょうか。そのような非科学的な方法によらずとも外交的な話し合いや真実の報道、究明によって前進出来るというのであれば勝手に進めていただきたいものですが、正直に言って私はそういう方面はまったく信用しておりません。また確かに表層的な見掛けの真実だけを信じて生きている分には日本は充分に平和で安泰であるようにも見えますが、どうなのでしょうか、既に多大なる被害を被って事実上の実験場となされていると疑うだけの根拠はあります。今は言いませんが。日本が今後とも自主憲法の成立一つ出来ないのであれば、我々日本人は一個人として自分の身を守るためにも人間としての限界や枠組みを乗り越えていかなければならないのです。