龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

超越の思想

アトピーの話しの続きもしなければと思うが、私の悪いところかも知れないが、同じ内容の記事を作成し続けていると煮詰まるということはないが、気分的にうんざりとしてくるのである。この「うんざり」は、毎日、寿司を食べ続ける感覚に近いようなものがあるような気がする。4~5日毎日、寿司を食べればもうしばらくの間は食べるどころか見たくもなくなるであろう。自己弁護する訳ではないが、これは飽き性とか怠慢による継続性の欠如というよりも健全性を維持する上での正常な反応だと思われるものである。特に私のアトピー体験は、辛かった期間は僅か6ヶ月ほどの短い間であったが、それでもその時のことを思い出し、考え続けていると鬱陶しいというか、要は早く忘れてしまいたいという気持ちが強い。自分はもうほとんど治ってしまったのだから(まだ若干、症状は残っているが)、それで良いではないかという気持ちが本音としてある。しかし世の中には6ヶ月どころか5年とか10年もの長期間に及んで、私が経験した以上の苦しみを継続させている人がたくさんいるのである。そういう人々のことを考えると、やはり黙ってはいられないという気になる。忘れようとしていたことが意識化されて、精神の前面に出てくる。その繰り返しである。最近は何故か俳句を作り続けていたが、俳句という「寿司」にも嫌気がさしてきた。因みに私の作っている俳句は、正統的な俳句ではない。五・七・五の17音と季語という型に沿わせているだけで、その中身は俳句でも川柳でもない。単に自分が言いたいことを詩的に表現しているだけだ。それなら17音とか季語の制約も外して自由詩で作ればよいではないかと思われるであろうが、それもそうだが、私にとっては17音や季語のルールに従うことが社会との紐帯になっているのである。そのルールを無視すれば、中身の感覚が世間一般から乖離している故に、社会と何の接点もない人間になってしまうのではないかという不安が潜在的にある。これはヤクザの感性に近いものがあるような気もする。いわゆる渡世人とか極道と呼ばれる人種は、作法や流儀、或いは儀礼的なことにこだわり大切に守ろうとする。私は素人なのでその世界のことは詳しくはないが、世間一般の感覚とは異なる価値観で生きている人間ほど、社会とのつながりが切実なのである。その辺の感覚は私にはよくわかる。そういう意味では、私もまた本質的にはヤクザ同様のアウトサイダーなのであろうと思われる。しかし私の「アウトサイド」は生き方とか社会的な身分にまで及ぶものではなくて、単に表現上の思想とか感性に限定されるものであるから、外形的には全くの「インサイド」の人間である。だが私はヤクザや宗教信者のように組織的に徒党を組んでいる訳ではないから、自慢になるかどうかは別として、より孤独な人間であると言える。形式と本質が異なっているから、理解されにくい、いや永遠に他者に理解されない人間なのである。それゆえに必然的に私のような人間は、人間世界を離れて神を志向することとなる。それも宗教とかスピリチュアリズムの枠組みをほとんど無視して、純粋思考だけで志向するので、社会的には全く無力であると同時に極めて危険な存在にもなり得る。こういう矛盾の中で私は行ったり来たりを繰り返している。ニーチェツァラトゥストラではないが、山に登った者はいずれ麓の村に下りてこなければならない。ならば私は特別というか、非凡な人間かと言えば全くそういうことではない。正直に言えばごく希に自分は天才ではないかと錯覚することもあるが、冷静に判断すればどう考えても凡人以下の存在である。超越しようとしている訳でもないが、埋没することを拒んでいる。注目されたくはないが、露骨に無視されるのも気分が悪い。思想的には右翼でも左翼でもないと思う。金持ちや軽薄なセレブが嫌いだが、貧乏にだけはなりたくない。資本主義を嫌悪するが、共産主義者でもない。名刺に印刷されるが如きレッテルなどどうでもよいのである。小難しい人間のように思われるかも知れないが、そういう世間的な二項対立の区分に分類されることに抵抗しようとする何かが自分の精神の内部にはあって、その脱分類が私の超越と言えば超越なのである。極端に言えば、自分は人間ですらないように思える時もあるが、鏡を見れば(見たくもないが)、醜悪な人間以外の何物でもない。敢えて言えば、人間とは人間以外の要素も含んで人間なのである。またそこに人間の根源的な可能性が秘められているのではないのか。人間の定義はともかくも私にとっての重大事は、やはり日本という国家であり、その権力機構の中で生きる市民としての世間の感覚である。
又吉直樹さんの小説『火花』に、又吉さんの分身と思われる主人公の徳永が、いつまでも売れない師匠の神谷のことを、地獄は孤独の中にあるのではなくて世間の中にあると批判しているくだりがある。つまり世間の中で本当に闘っているのではなくて、超越した孤独に逃げているから認められないのだということである。確かにその通りである。世間の内部にこそ本当の地獄がある。お笑いの感覚も世間の外部にはない。そういう地獄やお笑いのある世間にどっぷりと浸かって塗れていかないことには認められないし、一人前にはなれない。それはそれで教科書的な教訓だ。しかし(漫才師の又吉さんにこんなことを言っても仕方ないし、作品にケチをつけるつもりは毛頭ないが)、それではその世間の感覚の正しさというものは一体、誰が管理するのかということである。政治なのであろうか。それともマスコミの論評か。笑止千万である。今や日本の政治もマスコミの論評も世間そのものではないのか。誰もが小さな世間の論理の中でいじましくも評価されたり、儲けたり、痛烈に批判されるリスクを回避せんとして、都合のよい倫理や道徳を精密に構築して立ち回っている。誰もが世間の中で生き残っていかなければならないのだから、それはそれで間違っているとは言えないし、ある意味では正道なのである。しかし長年の間にその世間というものの地層がずれて来た時には、その歪みの蓄積によって我々一般市民の見えないところで、とても信じられないような不正や非人道的なことが行われ、隠蔽され続けることとなる。いやもしかすれば、歪みの蓄積などではなくそれが元々の日本という国家の本性である可能性もあるのだ。実に恐ろしいことではあるが我々は現実から目を背けてはならない。世間の論理に浸かりすぎていると現実が逆に見えなくなることもあるということ、またそれが現在の日本の病理であることを私は言いたいのだ。そのためには世間を外部から見るアウトサイドの目も必要なのであって、それが本来の文学というものの生命力の源ではないのか。日本の文学がダメになってきて、新刊本が売れなくなってきているのは、本離れや活字離れではなくそういうところに原因があると思う。世間の内部圧力(要するにタブー)が強化され過ぎて、文学の生命力が去勢されてしまっているのだ。だからそのタブーの隙間を縫うように、誰かに褒められたり認められることを狙った小利口な論理や表現ばかりが夏草のように蔓延ることとなる。これ以上、又吉さんを巻き込むと気の毒なので、又吉さんの作品内容や資質からは離れるが、「超越」という領域も本来は狂気とか脱世間ということではなくて、社会と共存しなければならないと私は思う。世間とか政治の内部感覚だけでは、長期的に見れば、決して健全な道徳とか倫理は維持できないのである。それは外圧があってもなくても同じである。また超越とは宗教を意味するものではない。敢えて言えば、全体的な蛇の脱皮のようなものだ。本質的には変化はないけれど生命を更新しようとする一つの強固な意思であり、またそのための外部の視点だ。
そこで私はオウム真理教について思うところがある。皆さんもご存知の通り、オウムの信者たちには超人願望というものがあって、超人になるために修行が麻原のもとで真剣に行われていたのである。私に言わせれば、一人で山に篭るなどではなく、集団で超人になる修行を為すということ自体が滑稽なのであるが、時代背景との関連性において検証して見るに必ずしも馬鹿にできないところがある。オウム真理教の前身であるオウム神仙の会が設立されたのは1984年である。名称がオウム真理教に改称されたのは1987年である。その当時に起こった大事件に1985年の日航機墜落事故があった。今から30年前のことである。今から考えるに私はこれは単なる偶然だとは思えないのである。もちろん表層的には日航機墜落事故とオウムというカルト集団の誕生は、何の関連もない別の事象であるが、形而上的に見れば深く繋がっていると私には思える。どういうことかと言えば、確かにオウムの信者たちは麻原に深く洗脳されてはいたが、その一方で社会の嘘を見抜く真っ当な知性と感覚を持っていたことも事実だと思う。彼らの行った犯罪を正当化したり擁護するつもりはまったくないが、当時のオウムの機関誌であったヴァジラナーヤ・サッチャに書かれていた通りに、国家というものは国民を洗脳して何をするかわからない、また実際にどのような恐ろしいことでも行うであろうという危機感を鋭敏に感受していたのだと思われる。またそういう危機感の中で世俗を脱して超人となり、凡夫を救わなければならないという思想が育まれていったのだと考えられる。そういう意味ではオウムのおぞましい犯罪は、オウムの内部だけから生まれたものではなくて、日本の社会が裏側から作り上げたということも可能なのである。これ以上の記述については危険を伴う恐れがあるので、続けるかどうか右左をよく見ながら(右も左もないが)しばらくの間、考えさせていただくことにする。アトピーの話に戻るかも知れない。