龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

金融帝国主義と民主主義の関連性

アメリカの財務官は、通貨安競争は望ましくないと牽制するが、日本は通貨安の「競争」を試みる意図など全く有していない。それは「言い掛かり」というものである。通貨安競争とは、製品の信頼性や技術力が十分な競争力を持っていないにも関わらず、国家的な通貨安誘導によって輸出量と海外シェアを高めようとなす政策である。一時の韓国がウオン安と積極的なロビイング活動によって欧州における自動車の輸出を飛躍的に伸ばしたことなどが該当する。それに対して日本の工業製品は、技術力や信頼性が高いので通貨安などに頼らなくとも放っておいても自然と売れるのである。韓国のような劣等な国と一緒にしないでいただきたい。しかし為替が1日で数円も乱高下したり、半年で20円も円高になれば、さすがに貿易立国である日本は、製造業だけでなく日本の経済全体にとって死活的に深刻な影響を蒙るものである。そのような緊急事態に際して通貨安「競争」でも「誘導」でもなく、自国通貨の安定を図るために政府や中央銀行が適切な処置を施すのは独立国家にとって当然のことであり非難される理由などない。為替の変動が秩序立ったものであるか、投機的で過激なものであるかは各国それぞれが独自に判断するべきことであって、世界共通の見方が強制され、維持されなければならない理由などどこにもない。仮にそのような統一の見解が強制される世界経済があり得るのだとすれば、それはグローバル経済下における金融の帝国主義であって、それ自体が世界経済の低下や成長性の可能性を損なうものでしかあり得ない。またそのあり方こそが、世界規模で見た場合のグローバル資本主義経済における構造問題であると言える。
現下の日本は先ず、これまで効果のなかった、また今後とも効果の見込みの薄い金融緩和政策を見直して、日銀のドル買い円売りの為替介入を実施することで通貨価値の安定を図るべきである。日本の政府、及び日銀の最大の誤りは、大胆な金融緩和政策の大義を表向きは、デフレ脱却、景気浮揚のためとして掲げているがそれは二次的というか中、長期的な目標であって、本音の所では直近の、これ以上の円高を「アナウンス効果」によって阻止しようと目論んでいることは明らかである。しかし市場は、そういう日本の迎合的な筋書きに対して必ずしも素直に、思惑通りに反応してくれないので、何か言えば、恫喝的に怒涛のように円高が進行するのである。そしてその事態を後追いするように、マスコミは、金融緩和の規模がしょぼいからこういうことになるのだ、市場との対話が出来ていないからだ、などという批判が巻き起こってくるものである。そして情けないことではあるが、麻生氏も日銀の黒田氏も、もうすっかりびびってしまって発言を忌避するようになってきている。財務省の高官や日銀の副総裁が代わりに要人としてコメントを発しているが、まあどちらかと言えばそういう配下の者たちの方が幾分かは日本の国益を真剣に危惧しているような気配は伺える。いずれにせよ日本の根本的な問題は、あまりにも政治の「自由度」が低いということにある。何で自国の通貨価値を安定させるために自国の判断のみで為替介入すらできないのか、何で日本の金で購入して保有しているアメリカ国債を売却してドルを円に交換し(それも元本だけでなく利息収入すら)、財政健全化に役立てることが許されないのか、その一方で国民には盛んに財政難の危機感を吹き込んで、消費税増税を押し付けようとするのか。ここまで政治の自由度が低いと、30年前ならいざ知らず、これほど政治や経済のグローバル化、融合が進んでいる今日にあっては自主独立国家としての「虚構」を維持することすら困難であり、まったく話しにならないものである。それゆえの憲法改正、自主憲法の制定は急務なのであって、安全保障は確かに重要事項ではあるが、それ以前の国家存立の大前提が問われているものである。何で多くの人はそういうことが理解できないのか、不思議でならない。また、日本の政治は、これほどまでに「自由度」と「自立性」が低いにも関わらず、莫大な政治資金が、我々の税金や貨幣の信用創造によって注ぎ込まれているものである。そのバランスが決定的に壊れてしまっていることこそが、日本の根源的な構造問題なのであって、インフレやデフレなど言ってしまえば枝葉末節の問題に過ぎない。政治の自由や自主がどうしても発揮できないのであれば、それに合わせて日本型民主政治の政治資金や議員定数も削減し、バランスというか健全な均衡点に立脚すべきなのである。そうすることによって日本の未来に、戦後の深い靄が解消した新たな地平が望まれるものであると考えられる。