生きること、書くこと 54
M・ナイト・シャマラン監督の不安感みなぎる映像が好きだ。敵の正体が見えないことほど恐ろしいもの
はない。現在、上映中の『ハプニング』を見た。
ニューヨーク、セントラルパークで異変が起きる。人間が次々と自殺してゆく。原因はわからない。生物
兵器のテロか、自然環境を破壊し続ける人間を敵視して植物が放出する有毒化学物質なのか。
異変はアメリカ東部全域に急速に拡大してゆく。外気に当たると感染する。安全な場所を求め、見えない
敵に怯えながら避難する人々……。果たして人類は滅亡するのか。
シャマラン監督の映画はカタストロフィの予感を感じさせる重苦しい雰囲気のものが多い。ムンクの絵を
見るようだ。しかし観客は完全な絶望へと追い込まれるわけではない。多難、不安、恐怖の中に微かな一
筋の光明が示される。芥川龍之介の小説『蜘蛛の糸』のようなものだ。地獄の中にも希望の糸が細く儚げ
に揺らいでいる。
私が思うにシャマラン監督の映画のユニークさは“反転”を映し出すことにあると思う。これまでの映画
における物語の一般的なパターンは以下のようなものであった。平穏無事な日常生活にある日突然、青天
の霹靂のように不幸が襲い掛かる。たとえば会社をいきなり首になったり、難病にかかったり、配偶者や
子供を事故で亡くすというようなことである。主人公はそのような苦境を何とか乗り越えて自らの人生に
生きる意味を見出してゆく。見ている観客は主人公に感情移入することによって感動し、癒されるのであ
る。
ところがシャマラン監督の映画は土台に圧倒的な恐怖や不条理がある。『シックス・センス』は当然のよ
うに生きているはずの主人公が実は死んでいた。『サイン』では主人公は家の中に侵入しようとする宇宙
人と戦い家族を守ろうとする。これらの筋書きだけから見れば現実にはあり得ない荒唐無稽なサスペンス
映画に過ぎないようにも思える。しかし日常と非日常が、あるいは条理と不条理が転倒し反転したところ
の視点で人類の前途や人間の希望、愛などの意味を哲学的に問いただしているのではないかと考えるとこ
れは現代社会のゆく末に対する深刻な警告とも思える。
世界そのものが反転しつつあるのである。平和で安全な日常は保障されるどころか非日常になりつつあ
る。人生の不幸や苦悩を精神的に克服し自らをより深く知るための手段として前向きに考えることは世界
の安定が前提になっている。近未来が圧倒的な恐怖や不安の中で微かな希望を見出してゆかなければなら
ない場になるとすれば我々は暗黒世界の到来を覚悟しなければならないということである。
これは映画(非現実)以上に恐ろしい“現実”であるともいえる。
我々は敵が見えない世界で日々蝕まれている。