龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 104


子供殺しの畠山鈴香被告が減刑を求めて最高裁に上告した。死刑を求めていた検察が上告断念を表明し、

畠山被告の死刑が回避されることが確定した上での上告である。

もちろん被告の権利であるから、控訴審の判決が出る前に言っていたこと(上告しない)と違うと非難す

ることは誰にもできない。しかし何の理由もなく愛する我が子を無残に殺害され、その後きちんとした反

省の色すら見せられることもなく、ただ自己権利としての減刑を求める被告の態度に遺族が感じるであろ

う憤りややるせなさを想像すると、私の胸中は怒りで赤々と燃え上りそうである。畠山被告の弁護人は、

被告は反省の気持ちがないのではなく、反省の仕方がわからないだけだ、などと愚にも付かぬ詭弁を弄し

ていたことも本当に腹立たしい。

私の目に畠山鈴香という女は、女と男の違いはあっても大阪教育大付属小学校、児童殺害事件の宅間守

重なって見えてしまう。子供殺しであるということ、決して反省しないこと、きわめて自己中心的な性格

であることなどの共通点を考えると、もし神が人間の魂を昆虫標本のように分類すれば、まさに畠山鈴香

宅間守の中身は同じモノである。

イギリスの作家コリン・ウィルソンは人間は神と動物の間で宙吊りになった不安定な生き物であると書い

ていたが、私の定義では人間とは人間の皮を被った何物かである。人間とは“仮の姿”である。よって人

間の本性というものはない。獅子や象、鳩など動物の世界はそれぞれの種の本性に基づいてほぼ正確に生

が営まれている。ところが人間には個々の本性しかない。だから人間世界は予測不能でいつも混乱してい

るように見える。人間は共通した本性を持ち得るまでには進化していないとも言える。悠久の動物進化の

記憶から完全に抜け出せていないから、雑然とした生の多様性を人類は本質的に孕んでいるのかも知れな

い。おそらく高度な進化を遂げた地球外生命の宇宙人は共通の利他的知性と利他的本能を有しているであ

ろう。そうでなければそれまでに、その星の文明や人類は滅んでしまっていたであろうからである。とも

かく現在の地球上では理由もなく罪のない子供を殺し、反省する心の働きがまったくないような本性の持

ち主も人間の一部として認めなければならない。そのような人間に対してどのように考え相対するか、こ

れは社会制度の問題である。ということで“死刑”について考えてみることにした。

先ず初めに、日本において死刑制度存続の賛否についてアンケートを取れば、80%以上の人々が賛成

し、国内において死刑はほぼ当たり前のことと受け止められているという事実がある。しかし世界的に見

れば、ヨーロッパでは死刑廃止をEU加盟への条件としていることもあって全面的に廃止、あるいは執行

されていないなど、少なくとも先進国においては死刑制度を存続している国(日本とアメリカ)は例外的

なのである。私も基本的には、現段階の日本において死刑制度が存在していることの必要性や妥当性を全

面的に否定することは出来ないので消極的に賛成であるが、方向性としては世界の潮流に従うように徐々

に廃止へと向かってゆくべきであると考える。必ずしもアメリカが世界の潮流の源ではない。よって近年

の日本における死刑執行の増加に私は反対である。以下、具体的に死刑廃止へと向かうべき理由について

述べる。

第一に、基本的に“死”が刑罰足り得るのかという思いが私にはある。言うまでもなく、生命あるものは

必ず死を迎える。天寿を全うする人だけではなく、毎年、事故や病気、災害等で亡くなるたくさんの人々

が存在する。また死は全ての人間にとって不可避性の観点からだけではなく、善悪をも超えて公平である

と考えるべきだ。悪人が死ねば地獄にいくと信じている人がいるが、もしそうであれば刑罰としての死刑

など必要ないはずである。悪人が死んでも本当に地獄にいくかどうかわからないから死刑は必要だという

理屈になる。よって厳密に言えば死そのものが罰なのではなく、不自然な形で強制的に生命を剥奪される

死刑執行までの“生ける”恐怖に死刑の刑罰としての本質があると見ることができる。因みに鳩山邦夫

法務相は当時、死刑執行に関する新聞社のインタビューに「死刑囚は死後、地獄にいくことになる。私が

死ねば天国にいく。」と答えていたように記憶している。死刑執行を命令する立場の重責と重圧から出た

自己肯定の言葉であることはわかるが、本当にそのような考えで次々と執行命令を出していたのであれば

正に“死神”ではないのか。東大主席卒業か、何か知らないが、あの人物の奇異な発言は一体どのような

思想背景から生まれるものであろうか。

第二に、第一と関連したことではあるが“死”で罪が贖えるのか、という命題である。「死によって償

う」思想は武士道における切腹から連綿と日本人の精神に深く刻まれ、受け継がれてきた。切腹や特攻隊

の美学と、現代の死刑制度は日本人の死生観において深く関係しているように思える。西洋的な原罪の考

えでは、死んで罪が贖えるものではない。死のうが、生きようが永遠に人間の罪は残るのである。ところ

が日本的な死生観では、死んで償うとは言いながら本質的には“けじめ”を付けているところに重要な意

味がある。贖罪とは無関係にけじめの儀式として日本の死刑は執り行われる。もちろんそのような日本的

な死刑が必ずしも間違っているということは出来ない。死のけじめは社会全体に、生き続ける者の日常

に、再生と活力をもたらす力を持つ。また被害者遺族の悲しみも少しは和らげるであろう。

しかし死刑囚の死そのものが罰にならず、罪を贖うものでもないという前提で考えるならば、やはり死刑

囚が死の恐怖に向かい続けることの苦悩から生まれる人間らしい反省や悔悟の心情を何よりも重視すべき

であると私は考える。何故あえてこのようなことを言うかといえば、前述の宅間守は自ら死刑判決の控訴

を取り下げて死刑を確定させ、6ヶ月以内に執行せよとの法律を根拠に最後まで反省する気持ちを持とう

としなかったからである。彼にとっては死そのものよりも、拘束された環境で長期間、死を通じて自分自

身に相対させられることの方が恐ろしかったのではないであろうか。それでさっさと死刑を執行させて死

んでしまったが、これでは実質的に自殺である。私が上記で述べた死刑における死の無意味さを、宅間は

社会に対して挑発的に証明するようにして極刑に身を投げ出した。これでは殺害された子供たちも浮かば

れない。畠山鈴香の態度にも宅間に近いものを私は感じるのであるが、彼らが我々に教える教訓とは一体

何であろうか。

日本の死刑制度のあり方について結論を言えば、私は死刑判決は原則、死刑でよいと思う。たとえば死刑

確定囚であっても、いずれかの時点で無期懲役減刑する機会を設けてもよいのではないか。この方が死

刑判決を出すほうも出しやすいであろうし、囚人の自己反省も自ずと深くなるであろう。もちろん死刑と

無期懲役の差はあまりに大きいので囚人の気持ちがいつまでも安定せずに返って残酷だという指摘もある

であろう。しかし確定囚の執行も少なくしていき、死刑制度そのものを形骸化させてゆく方向を日本は将

来的に辿ってゆくべきだ。もちろん私自身が殺人被害者の遺族となれば話しは別で、一時間でも早く死刑

執行を願うようになるかも知れないが、それはそれである。遺族感情と社会的正義のあり方は分けて考え

るべきである。

私は日本が死刑廃止へ向かうことが、健全な国家になってゆく先駆けとなるような気が強くするのであ

る。何はともあれ今の日本はあまりに病んでいる。