龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

映画の虚構性について


いやあ、面白かった。最高だ。

リュック・ベッソン製作、ピエール・モレル監督の『96時間』を見た。

息もつかせぬ緊迫と興奮の93分であった。私は『96時間』に映画の本質と醍醐味を再確認させられた

ような気がする。

映画はどこまでも虚構の世界である。映画を見る喜びは、観客が自らの人生(現実)に、映画という嘘

(非現実)を一時的に注入することによって麻薬のように魂を飛翔させることである。しかし嘘であるこ

とはわかっていても上手(良質)な嘘でなければ飛べない。私にとって映画の定義とは精神に麻薬的に作

用するところの総合芸術である。

よって難しい映画論などまったく関係なく、飛べるか、飛べないか、酔えるか、酔えないかがその作品に

価値があるか無いかの明確な基準となる。『96時間』は良質な嘘であるがゆえに私の魂は反応し、飛ぶ

ことが出来たのだと思う。

それはひとえに脚本が優れていたからなのであろう。映画の虚構性には様々な種類があるのであろうが、

単にスケールが大きいと言う理由だけで必ずしも人間の精神は飛翔できるようにはなっていない。最近の

ハリウッド映画は宇宙人による地球の襲来を初めとして、隕石の衝突、悪性のウイルス感染の猛威、異常

気象など地球滅亡の危機を煽り立てて、そこに一筋の微かな希望を見出すというパターンが一般的であ

る。地球滅亡は誰にとっても共通の恐怖であるから、“マーケティング”的に世界中でより多くの人々が

見てくれるであろうという、その馬鹿げた単純さに私は我慢がならないほど白けてしまうのだ。

一口にアメリカ的だと言ってしまえばそれまでだが、もういい加減にしてくれと叫びたくなる。映画は、

もっと一人の人間を深く掘り下げた所にある恐怖や興奮を表現することが出来るはずである。屈折してい

ても強烈な内面的エネルギーが現実社会にシンクロするようなパワーを持った映画が私は好きだ。

たとえばロバート・デ・ニーロ出世作であるマーチン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』のよ

うな映画である。名作であるのでご存知の方も多いかとは思うが、簡単に粗筋をご紹介しよう。

ベトナム戦争の帰還兵であるトラビスはタクシー運転手になる。面接でニューヨークの危険な場所に行け

るのかと聞かれて、何を考えているのかよくわからない、にやついた表情で

「エニータイム、エニーウエアー(いつでも、どこでも)」と答える。

タクシードライバーとしてニューヨークの街を流すトラビスの目が麻薬の売人や売春婦、ヒモなどを映し

出してゆく。トラビスはこの腐りきった街全体を水洗便所のように流してしまいたいと考える。ある日、

大統領選挙の候補者事務所で働く美しい女性(ベッティー)を見初めたトラビスはデートに誘い出すこと

に成功する。しかし悲しいかな日頃の習性でポルノ映画に連れていってしまってあっさりと振られてしま

う。その後何度電話をかけても当然のように応じてもらえない。挫折と絶望を感じたトラビスはタクシー

運転手を止めようと考え、同僚の先輩に相談する。その先輩(ピーター・ボイル)がトラビスを励ますシ

ーンの人生を達観した言葉が私は好きだ。今の日本の社会状況にもどこか通じているところがあるように

感じられる。

「俺は20年間もタクシーの運転手をしているが、未だに自分の車一台持てない。しかし俺はそれでもい

いと思っている。世の中には金持ちもいるが、俺たちはどうあがいたところで所詮負け犬なんだ。どうし

ようもないことだ。お前が一体何を考えているのか俺にはよくわからん。お前はまだ若いんだから、女を

抱くんだな。」

確かそのような内容であったように思う。その先輩の言葉は現実をきちんと見据えていて、飾り気がなく

正直だ。しかしトラビスは

「こんな馬鹿げたアドバイスを聞いたのは初めてだ。」

と言って力なく笑うのであった。

その後、トラビスはタクシードライバーをやめて身体を鍛え、“象をも一発で仕留める”マグナム44を

売人から購入する。それからなぜか大統領の暗殺を企てるのであるがあえなく失敗し、たまたま出会った

少女の売春婦(ジョディ・フォスター)を救出しようとして組織に単身で乗り込んでいくことになる。こ

のあたりのトラビスの行動は完全に狂気一色に染まっている。マフィアを殺した後、最後に拳銃自殺をし

ようとするのだが幸運にも弾が切れていて助かることになる。

陰惨な殺戮シーンから一転して退院後のトラビスの部屋に場面は変わる。トラビスに救出された少女の親

からの感謝の手紙がナレーションによって読み上げられる。部屋の壁には、トラビスを英雄として称える

新聞記事の切抜きがピン留めされている。

タクシードライバーに戻って仲間たちと談笑するトラビスに、ある一人の客が待っていた。ベッティー

あった。新聞記事を見たと話しかけるベッティーの憂いに満ちた目が、トラビスが運転するタクシーのバ

ックミラーに映る。トラビスは何も言わずに目的地でベッティーを降ろす。ベッティーは一瞬トラビスに

何かを話しかけようとするのだが、トラビスは金も取らずにタクシーを発進させ立ち去ってしまう。ミラ

ーに映るトラビスの目はニューヨークの闇に溶け流れるネオンライトを背景にまたもや狂気色に煌くので

あった。

この映画の凄さはデ・ニーロの圧倒的な演技力もさることながら脚本の力にあると思われる。またカメラ

が狂気と日常が同居する不安定や不気味さ、不安感などを上手く捉えているところが素晴らしい。そして

この映画は、虚構世界の中に虚構を超えた現実が感じられるのである。ベトナム戦争後の疲弊したアメリ

カ社会の中で、トラビスの落ち込んだ表情や孤独、狂気に彩られた眼光などの禍々しさ全体がまるで現実

のように愛しく感じられる映画であったように思われる。上映当時、劇場でマリファナをやりながら『タ

シードライバー』を鑑賞していたアメリカの若者たちは、現実逃避をしながら虚構の中の現実を見つめ

ていたのではないのだろうか。

映画『96時間』は、『タクシードライバー』と比べられるような名画とは言えないかも知れないが、脚

本がしっかりしていているので飛べる映画である。

引退したCIAの元秘密工作員が、離婚後再婚した元妻の下にいる最愛の娘のために人生を投げ出すよう

にして一人で暮らしている。ある日、その娘がフランスに旅行中、アルメニア系の人身売買組織に誘拐さ

れて身売りされてしまう。96時間以内に救出しないと奪還できないことを知ったリーアム・ニーソン

じる父親は、警察の力を頼らずに単身で組織に乗り込んで娘を取り戻そうと戦う。その強さや活躍ぶりは

漫画チックと言えるほどに非現実的なのであるが、見ていてまったく気にはならない。この映画の虚構を

超える真実の感覚は、どんな事をしてでも(エッフェル塔を破壊してでも)娘を助けようとする父親の強

い気持ちがスクリーンを通じて臨場感をもって強烈に伝わってくることである。そのためには何の罪もな

いご婦人の腕まで平気で拳銃でぶっ放してしまうのだから無茶苦茶だ。

はっきり言ってこの作品には善も悪もなく、正義も道徳もない。しかしこれぞ映画である。いやあ、痛快

な映画であった。しかし本当に面白い映画は、なぜか日本では見る人間が少ないのも一つの現象である。

アメリカやフランス、韓国で大ヒットした『96時間』は私が見に行った時は平日の最終回であったから

かも知れないが、私を含めてたったの3人しかいなかった。日本人は、世界には本当の絶対悪が存在する

という事実を突きつけられるような映画を娯楽として楽しめないのかも知れない。この映画はパリの暗黒

街に巣くう犯罪者集団の事実に基づいて作られたそうである。

エンドロールが流れ終わって劇場のライトが点いた時に周りを見渡すと、私一人しかいなかった。思えば

虚構から現実の世界に立ち返るときに、私はいつも一人である。