龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 153


審議拒否だと、審議復帰だと、ふざけるにもほどがある。

自民党の政治家は自分たちの仕事を何と心得ているのだ。多くの国民が生活の困窮に喘いでいる。日本全

体が預貯金などの金融資産を取り崩しながら何とか食いつないでいるような状況にある。収入が先細って

行く将来の見通しに対する好転の兆しが見えないので借金する体力すら国民から消えつつある。マンショ

ンの販売戸数が10年前に比べて半分以下に激減していることからも明らかだ。これではデフレになって

、なおかつ物が売れなくて当然だ。衣食足りて礼節を知る、とは言うが生活の基本が成り立たなくなって

きている。

日本は今や30兆円余りの税収で90兆円の予算を組んでいる。これはもはや節約してどうにかなるレベ

ルではない。しかし国の借金(国債)と企業や個人の借金を同等に考えるべきではない。企業や個人は借

金を返済できる見込みがなくなると破産して整理されることになる。しかし国は違う。国は実質的に“破

産状態”にはなり得るが、借金が原因で国家機能がストップして壊滅するということにはならない。むし

ろハイチの大地震のような天災や戦争による治安や秩序の崩壊が国家にとっては致命的となる。国家とは

人民統治のメカニズムであって商店ではないのである。経済破綻における、国家と企業や個人とのわかり

やすい違いが国家には貨幣を発行する権限があるということだ。国債について言えば、国は満期日にきち

んと利息をつけて償還することが出来ている間は、どれほど天文学的な残債があろうとも存亡を問われる

ことはないし恐慌にもならない。とりあえず通貨や国債の価格(信用)が安定していれば、国の借金が巨

大だからと言って国民生活が戦時中のような困窮に耐えなければならないという理由にはならないはず

だ。

ところが今の大不況は、天災や戦争同様に社会秩序を喪失しかねない危機的状況にあるのであって、審議

拒否だなどと寝ぼけたことを言っていた政治家は万死に値する。政治能力以前の問題だ。これでは箕面

猿に議員バッジを付けさせていた方が日本はまともな国になるのではないのか。野生の猿でも集団の中で

知恵を働かせながら道義的に生きている。政策の議論ではなく、審議拒否で主導権を握ろうとするかの原

始的な方法ははっきり言って猿以下である。

日本の経済は自助努力で立ち直れる能力を失ってしまったかのように見える。軍事面だけでなく経済にお

いてもアメリカの影響が強すぎる。アメリカが風邪を引けば、日本は肺炎に罹ってしまうのである。何で

こうでなければならないのか。本当の問題点は一体どこにあるのか。そもそもこのような国内構造を長年

にわたって連綿と構築してきたのは自民党ではないのか。ところが自民党自民党政治の総括や反省もま

ったくないままに、マントラを唱えるがごとく政治と金の追求さえしていれば自分たちが再浮上できる近

道だと考えているようである。まさにご立派な猿知恵である。

そのような獣に入れ知恵で後押ししているマスコミにはより構造的な問題が横たわっている。一口にマス

コミと言えば、種々雑多のメディアがそれぞれの角度と切り口から国民全体の声を代表しているように考

えている人が多いかも知れないが、社会本質を考察する時にその見方は間違っていると思う。実際には4

社か5社の新聞社が世論の動向を牛耳るようにコントロールしながら大勢を決定している。実は世論コン

トロールこそが大新聞社の権威と権益の根幹なのだ。それは本来、正義や道徳とはまったく無関係な領域

なのだが、大衆にはどうもその機微がわからないようなのである。どうしてだろうか。少しわかりやすく

私なりに説明を試みてみたいと思う。

先ず第一に、世の中全体の不況は大新聞社には無関係というわけにはいかないという当たり前の前提条件

がある。むしろ一番、大きなダメージを被っている業種であると言えるかも知れない。私の家では朝日新

聞と読売新聞を取っているが、2紙も取っている家はかなり稀だと思われる。2紙どころか、今や新聞を

取っていない家庭が急増しているのだ。新聞を取っていないと言えば、我々が子供の時には極貧の家庭を

想像したものだが、今日にいたってはそうではない。現に私の会社の顧問税理士は、ずっと日経新聞を購

読していたが最近になって新聞を取るのをやめてしまったと言っていた。インターネットを見ていれば大

体のことはわかるので新聞の必要性を感じなくなったことと節約のためらしい。税理士ですらそうなので

ある。

このように新聞業界は日本全体の大不況の中でも特に斜陽化しているのだ。このような状況が新聞社内部

において、どのような世論誘導に結びつくことになるかを看破することができなければ、そういう最低限

の知性を有する人間が増えなければ世の中は変わり様がないのであろう。ゆっくりと惰性のように沈没し

てゆくだけである。新聞の販売部数が減少すると当然その分の売上が少なくなるが、それ以上に広告価値

が小さくなることの損失が甚大である。各新聞の販売部数は公称なので多分にごまかしがあると思うのだ

が(厳密に言えばそれ自体詐欺のようなものだが)、今日のように極端に購読者が減ってくると大企業が

新聞広告に金を出さなくなり、ネット広告に移行してゆくこととなる。新聞広告は地元のスーパーの特売

や求人などの折込広告などが大勢を占めるようになる。これは新聞社系列下の各TV局においても事情は

同様であろう。今や大企業自体が広告効果以前の問題として見ても、新聞やTVなどに莫大な広告料金を

支出する余裕がなくなってきている。大新聞社や系列下のテレビ局は図体の大きさゆえに地元の商店など

を相手にしていたのでは経営が成り立たないのだ。そのようなマスコミ資本は、有数の自動車メーカーや

化粧品会社、ビール会社が大いに儲かって、億単位の金を広告にぽんと出してくれてこそ潤うのである。

よって政治的に見れば、マスコミ資本が基本的には自民党の大企業中心主義の主張と同調しやすい体質で

あることはご理解いただけるであろう。そうは言っても自民党政権の時に、まさか右も左も金主である大

企業万歳、自民党万歳の論陣を張ることなど出来ないから、そんなことをすれば結局言論の差異がなくな

って淘汰されるのは目に見えているからであるが、右と左に分かれて政権を攻撃したりあるいは擁護した

りの民主主義的ゲームが繰り広げられることとなる。

ところがいざ本当に民主党政権になってしまうと、各メディアはそれまでの“お遊び”を一旦中止して和

平協定を結び、経営を最優先した元の自民党政治回帰への道を敷かなければならないことになるのだ。メ

ディア間の戦いは自民党が政治の中心に復活するまでお預けとしましょう、ということだ。また新聞社は

政治家への企業献金について重箱の隅をつつくような糾弾をしながらも企業献金そのものの禁止にはかな

り消極的である。なぜなら大企業の政治への影響力と新聞社が恣意的にその違法性を暴き出す特権を温存

させたいからである。私の言っていることがご理解いただけるであろうか。我々の目の前に提示される正

義とは、常に少数の支配階層のご都合主義による微妙なバランスの上で成り立っているものなのである。

なぜこのような明白なことを多くの人が理解できないのか、私は心底、不思議でしようがない。夢を見て

いるような心持である。あるいは私は本当に夢を見ているのかも知れない。

平安時代空海最澄が唐から伝えた密教は、天皇家外戚として摂関政治を執り行う藤原氏一族と深く

結びつきながら三つ巴の関係性の中で日本の精神史を形作ってきた。そこに民衆はまったく関与していな

かった。時は1200年経た21世紀、平成の日本にあってもマスコミ資本、政党、司法権力の三者がそ

れぞれの権益を失わないための綱引き劇を演じている点において本質的には平安時代とまったく変わって

いない。国民はどこまでも不在である。

ところでホリエモンは結局のところ頭は良くても“世間知らず”だったのだろうなと思う。新興勢力が資

本の論理だけで新聞社を傘下に収めることの恐ろしさが見えていなかったのだ。しかし本当は大新聞社の

一つや二つを潰していく位ではないと日本は現状から脱却できないように思う。記者クラブの排他性や冤

罪報道との関連も含めて総括的にメディア構造の改革を考える時期に来ていると私は思う。