龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 152


こういうことを書くと、何をわかったような批評を素人が生意気にするのだと不快に思われる方もいるで

あろうが、先日のサッカー日韓戦についての率直な感想を述べたい。

その前に、私は以前から日本代表チームの国際試合を見ていると勝敗とは無関係に、何故かしら憂鬱な気

分に陥ることが多かったのだが、14日の日韓戦でその理由がはっきりとわかったような気がした。結論

から言えば、日本のサッカースタイルは、まるで日本社会の縮図そのものなのである。

日本サッカーの特徴は言うまでもなく組織プレイである。組織プレイとは文字通りシステムの力を前面に

出して戦うスタイルだ。確かに日本のサッカーがこの10年で飛躍的に強くなったのは事実である。ボー

ル回しを見ていると洗練されていてスタイリッシュですらある。どことなく落ち着いた余裕が感じられ

る。ところがである。ゴール前で相手チームのマークが外れてチャンスになった途端に、あたふたとまご

ついているかのような風情になるのである。選手の視線が足元のボールに向けられていることが端的に余

裕の無さを物語っている。それで結局、選手は前を向くことすら出来ずにシュートまで辿りつかないので

ある。そこにはコンマ何秒かの逡巡と萎縮が見て取れる。中盤でボール回しをしている時はとても格好い

いのに、チャンスになると不細工になる。同じ選手の身のこなしとは思えないぐらいだ。

サッカーにおいてシステムの力とは、選手たちの均質で予測可能な動きの総合力に他ならないのではない

であろうか。日本のサッカーに決定力、得点力が欠けていることは何年も前から指摘されていることであ

る。決定力とはすなわち突破力である。それでは突破力とは何かと言うとまごつかず、ためらわず、伸び

やかにシュートまでいきつく個人の才能だと思う。その才能の本質はシステムの力とは違って、異質で予

不能な動きではなかろうか。それでは結局、日本選手には独創的なゴールを生み出す才能がないから仕

方ないのではないかと言ってしまえば身も蓋もないが、問題はそれほど単純ではないと私は考える。日本

の指導者や監督たちが組織力を優先しすぎて、個人の才能の芽を潰している傾向があるのではないであろ

うか。その根底には組織力と突出した個人の才能が相反する要素であるとする考え方があるのではないか

と思える。

14日の日韓戦を振り返ってみると、ボールをキープしているのはほとんど日本である。漠然と見ている

と日本が優位に試合を進めているように見える。得点をするチャンスが何度も訪れそうな気配が中盤のボ

ール回しを見ていると感じられる。ところが実際には日本はPKでしか得点を上げることができない。そ

の試合だけに限らず日本の得点力はコーナーキックフリーキックなどのセットプレイからがほとんど

で、ボールコントロールから前線突破していく迫力がない。対して韓国は一見すると劣勢のように見える

が、日本との戦い方、勝ち方をよく心得ているのであろう。日本の組織力は優秀であるが90分間は緊張

を持続させることは出来ないはずだ、必ず何回かは綻びが出てくる場面がある、と読んでいる。それで実

際にその数少ないチャンスにボールを奪った選手が単身で駆け上がり確実にゴールを決めるのだから敵な

がら見事としか言いようがない。そこにある力が決定力であり、突破力である。かくして日本選手の集中

力はいかに綻びを生じさせないラインを保つかということに注がれることとなり、得点は神の恩寵である

かの幸運を期待することになる。はっきり申し上げて、そのような日本のサッカーは面白くも何ともない

のである。面白くないだけではなく組織力対突破力の戦いでは、突破力の方に軍配が上がることはこれま

での日韓戦の戦績が雄弁に物語っている。

極論すれば、中盤付近から連携プレイなどまったく無視して単身ドリブルだけで切り込んでいくスタンド

プレイがサッカーの醍醐味であり本質だと思う。5人抜きでゴールを決めるマラドーナのようにチームが

勝とうが負けようが自分が目立つことこそ第一だと考えるようなタイプの選手が現れないことには、日本

のサッカーは面白くならないし最終的に本当の強さへ脱皮できないと私は思う。もちろん日本はそのよう

な卓越した個人の能力がないから組織プレイで立ち向かわなければならないのだという意見もあるであろ

う。国民性の問題もあるかも知れない。あるいは一人だけ目だって異質な動きをすれば監督から叱られて

メンバーから外されたり、得点に結びつかなければマスコミにこっぴどく叩かれるということもあるであ

ろう。しかしブラジルやヨーロッパの強豪国の試合を見ていると核となる得点能力の高い選手を中心に組

織が臨機応変に機能しているように感じられる。日本のようにゴール前の押しくら饅頭のようなごちゃご

ちゃとした状態から辛うじて得点するのとはえらい違いだ。

鶏と卵の議論をしてもしようがないが、サッカーのようなスポーツも一つの文化として10年ぐらいの長

期的なスパンで作り上げていくことを考えないと我が国に偉大な才能は現れないと思う。このままではい

つまでたっても韓国に勝ち切れないぞと言いたい。基本は考え方の問題ではないのか。サッカーだけでな

く野球もそうだが、日本と韓国の実力は伯仲しているように見えるが質が全然違う。日本は何ていうか官

僚的なのだ。運動神経が抜群の役人たちがユニホームを着て指揮官の命令通りに戦っているように私の目

には見える。それで私は無意識に憂鬱な気分に陥っていたのだ。本来、個人の才能が最も重視される分野

であるべきスポーツまでもがシステマティックに管理されているようなゲームを見ると何と日本人には官

僚被支配のDNAが深く刻み込まれているのかと愕然とする。一方、韓国は水も漏らさぬような日本の官

僚型ラインに対峙しつつ、個人の力で踏み破っていこうとする気迫が感じられるので思わず私は韓国を応

援してしまいそうにもなる。我々一般人からすれば、まあ言わば日本の裁判所、検察、メディア資本の三

者による鉄壁の連携システムみたいなものだ。我々もそのラインを踏み破っていく勇気を持たなければ生

活は変わらない。日常生活もサッカー同様の戦いである。足元のボールだけでなく常に全体が見えていな

いと強くはなれない。また豊かな想像力や優美さ、奔放性は管理体系の中からは決して生まれない。サッ

カーも人生も国家もそれらにこそ本来の可能性と美しさがあると私は信じている。

結局は何の話だったのか。